朝日新聞 1952/04/06(日曜日) に掲載された 広津和郎「回れ右 政治への不信ということ」

回れ右 政治への不信ということ



どうやらまた「回れ右ツ」が来たようである. 回れ右をすると,それまで先頭に立っていたものが殿りになり,殿りのものが先頭になる. 終戦後民主主義の掛声で「回れ右ツ が叫ばれると,あのいわゆる非常時時代を「時局を弁[わきま]えず」にビリの方からいやいやながら尾いて行った民主主義者や自由主義者が,いよいよ自由の春が来たように勇んで先頭に立ち,軍国主義者,封建的指導者,財閥等が後に追いまくられたかの形に見えたが,それもいくばくもなくして,又もや「回れ右ツ」が始まったようである


一時高まった民衆の政治的関心も近頃は大分衰微して来て,政治に対する不信がだんだん拡がって行くらしい. 吉田内閣も困ったものだが,さりとてだれを出して見たところで,信頼できる政治家はいないではないか,という声をしばしば聞くが,その声には不信以上に絶望の響きさえある


それは結局民衆の政治に対する監視が足りないのだという非難も一応もっともらしく聞えるが,しかし民衆に言わせれば,自分達は仕事を持ちそれぞれ生活の目的を持ってそれに精力を使っているのであるから,専門政治家のように政治オールに動きまわることは出来ないということになるであろう. こんなに政治に気を使わせられるということが,元来民衆が政治家に望んでいることではないのである. 監視しなければ勝手な真似をする政治かというものが,どだいやり切れない人種なのである


さて政治に関心を持てと言ったところで,いろいろの事の真相が民衆には解らない. そういうと,それこそ政治に対する関心が足りない証拠だとまた非難するかも知れないが,しかし政治の方ではその真相をなるたけ民衆に知らせまいとしているのであるから,その隠そうとする秘密をスパイのようにかぎまわるには,特殊の興味を持つ人かあるいはその事を商売にしている人ででもなければ,普通の職業者にはその暇がない


それだから何かの事件にぶっつかる度に,われわれはその表面を見ただけでは,その裏側が解らないという疑惑に始終頭を労さなければならない. そして何かの事件の裏側には,始終政治的な何かの魂胆が隠されているのではないかと考えねばならないということは,実際言いようのないうっとうしいものである


もっと物事が明朗にならないものか. 物事の真相がもっと正直に民衆の前に告げられないものか


殊に最近の松川事件などを見ると,せめて裁判だけでも,公正にやってもらいたいものだと思う. 第一審で死刑その他の重い判決を受けた被告たちが,第二審で今その判決に抗争中であるので,今度こそはその真相が判明するであろうと思うが,私はどちらに荷担しているわけでもない. ただどんなイデオロギーの政治であっても,裁判だけは公正にやってくれるものということが信じられなければ,生きているのが不安でやりきれないと思う. 無実の罪が警官や検事によってネツ造されるなどということがほんとうにあるのかどうか,そんなことは信じたくないために,第二審はあくまで厳正であって欲しいと思う


あの問題はあの被告等が無実の罪だったとすれば,一体それではあの恐るべき列車の転覆が何者の手によって,どういう目的でなされたものであるかという処まで,追求されて欲しい. それでないと,われわれは不必要な想像力を働かして,精力を浪費しなければならないからである. いずれにしてもこの事件が,何らかの陰謀によって起こされたものだったら,安心して汽車にも乗っていられない(作家)



【出典】


朝日新聞縮刷版1952/4月



【参考】


廣津和郎『裁判と国民(上)』廣松書店,1981/09/21[*1]


木下英夫『松川事件広津和郎 - 裁判批判の論理と思想』同時代社,2003/12/01「裁判批判の論理と思想/広津和郎文学の検討 第1章.裁判批判の動機と論理」


本田昇『松川事件 60年の軌跡』プラスワン,2009/10/17 IV.『裁判と国民(上)』解説紹介


裁判と国民 上 松川事件と広津和郎―裁判批判の論理と思想

*1:縮刷版で潰れた文字の確認