民族主義の侵略性と依存性


いままで日本人は「個人のことは犠牲にしても,とにかく國のこと,民族のことはよく考える國民だ」と考えてきた. それにひきかえ「欧米人や中國人などは,個人のことばかり考えて,國のことなどは考えない國民である」と教えられ,多くの人々がそう考えてきた. そして,このことが,日本民族が他民族にすぐれている點であり,日本民族が無窮に發展するゆえんであるとも考えてきた. しかし,實際には,こうした考えをもつた日本人こそ,いままで自分の民族問題を正しく提起したり,解決したりしたことはなかつたのであるが,敗戦という深刻な事實によつて,自らの舊來の行き方が不可抗的な壁にぶつかつた後においても,從來の考え方はつよく殘つている


日本に發展した軍國主義は,民族の發展のために國民は一致團結せねばならぬという民族主義を有力な武器としてきた. これは國内問題または階級を超越したなんらかの重大問題があり,その解決なくしては民族が自滅してしまうという宣傳であつて,常に問題を外にそらし,問題の階級的性格を抹殺しようとするものである. それは,いたずらに民族對立を激成し,戰爭を準備し,勤勞大衆を破滅化するものであつた


しかして,その宣傳がいかに民族的に見えても,終局において自らの力に對する眞の自信のない點に出發していることは特に大切なことである. たとえば,軍國主義者や民族侵略者共は「日本は國土がせまく,資源がなく人口が過剰であるがゆえに,日本民族が食つて行くためには,満洲をとり,中國を侵略することはやむをえないことだ」といつた. 多くの國民もまた「侵略を好むわけではないが,やむをえない」という氣持であつた


はたしてそうであつたか? たしかに日本の國土はせまく,資源は豊富ではない. しかし,日本の軍國主義者共ははたして,日本の國内の資源を最大限に開發する萬全の措置をとつたであろうか? 彼らは農業改革一つ行うことができなかつた. 工業では極度の低賃金に依據した貿易中心の輕工業と軍事工業だけを畸型的に發展させ,自立力をもつ重工業や國民のための工業農業を建設しえなかつた


すなわち,戦前戦時の日本經濟は極度に狭い國内市場のために,またこの國内市場を擴充してゆく能力をもたないがために,強行的に外に發展せねばならないのであつた. しかして,その國内市場とは,別の言葉でいえば,主として勞働者と農民の生活水準のことである. いろいろの改革を行い,國民のための農業・工業を發展させていくのではなく,一切の改革は行わず,國民に物を賣るのではなく,外國に物を賣らなければやつて行けないような産業體制をつくり上げてしまうならば,その體制の下では,賃金をいよいよ低めなければ國際的競爭にかてない. そのことは,また,ますます國内市場をせばめて行くのである. これを要するに,高利潤のみを追求し,眞に國民のための社會改革と産業建設のないところに,對外侵略の必要が生まれてくるのである. これは國内に依據せず國外市場に依存する一つの表現である. 侵略主義とはことの内容において對外依存である


しかも,この方向は,資源の交流や貿易の繁榮という點においても,全く失敗であつた. それはアジア諸國の民衆の決死的な反抗を受けただけでなく,歐米諸國民の深刻な反抗にぶつかり,ついにくたばつてしまつたのである. これは今日の問題を考える上においてとくに重要である. すなわち,いわゆる貿易中心主義が貿易を繁榮させ得ないということは,奇しきことであるが現實の事實である. 眞の貿易の繁榮は利潤追求のためでなく,各國民が自らのための國民經濟を高度に發展せしめるとき,すなわち自國の經濟を,外國に物を賣らねばやつて行けないという體制でなく,主として自國民の生活と消費のために經濟を編成するとき,無限に繁榮して行くのである. このことは,特定の資源が不足している國においては,とくに重要なことである. 資源が不足しているがゆえに侵略主義になりたがる. しかし,現實には反對に,不足しているがゆえに國内改革の上に立つ建設と眞の國際主義が必要である


しかして,資源の不足をかこつこの侵略者共は,決定的な資源を忘れているか,あるいはその過剰をなげいている. それは「人口」である. この勞働力をもつ「人口」こそ,その國の決定的資源であり,これがありあまるほどあるということは,いよいよ偉大なことである. この働きうる「人口」を實際に完全に職につけ,その各々の能力を盡さしめるならば,侵略も要らず,依存も要らず,眞に堂々と互惠平等の立場において,國際經濟の有力分子として繁榮せる貿易をなしうる力をもつのである. 一切のもの,一切の生産手段は結局,この勞働力が作るのであり,「人口」である


この「人口」を過剰なりといつてやつかいもの扱いにする人々こそ,この力に依據しないものである. それは,その力に反對するがゆえにおこる議論である. それは一切の民族主義的宣傳が,階級抹殺と勞働者壓伏を主たる目的にしていることの裏腹の問題である. ここにおいて,侵略主義や民族主義の眞の本質が明白になるのである. さらにまた,眞の國際平和や國際的協調が,物や資源でなく自國の「人口」(勞働力)に對する無限の信頼の上に立つこと,しかして問題は,それをいかに組織するか,それがいかなる社會制度か -- という點にあるが,この「人口」こそ,その國の長い歴史の過程ではぐくまれた「人口」であり,例外的文化をもつ「人口」である. この「人口」を基盤にしてはじめて眞の民族文化の尊重ということが起りうる. 民族性(新しい祖國意識も含めて)や民族文化の尊重と民族主義とは全く別物である. ここから内容は社會主義=國際主義,形式は民族的,という言葉が自然に出てくるのである




⇒ 続く id:dempax:19480511