先進國の民族主義


私はここで日本の民族問題を全面的に取り扱うのではない. ただ,民族問題の取り上げ方についての一般的なことを考察して見たいと考えるのである


科学的な意味での民族ということが,資本主義の發生に關連し,また基本的[*1]には,それと運命をともにしていることも,すでによく知られた理論となつている. 一言にしていえば,資本主義は一方には民族という人間生活の一定領域をつくるとともに,他方では世界經濟という領域をつくつた. ブルジョアジーがこの民族形成(反封建闘爭)を指導した時代に「全國民のため」というような民族主義が生れた. その民族の形成はたしかに一つの歴史的進歩であつた. 當時,民族主義も客觀的に進歩的なブルジョア思想であつた. それは今日未だ民族的統一(民族獨立)を完了していない國々におけるそのための活動が客觀的に進歩的であるのと同様である. しかし,この民族が發展をとげ,爛熟し出したとき,その民族的領域は生産諸力の「世界經濟」的展開に對して重荷になつてきた. しかも,このことは,その民族經濟の中において,生産の社會的性格と生産手段の私的所有との矛盾がはなはだしい状態に達してきたことの裏腹の問題であつて,かかる意味の民族主義と國際主義の對立は,基本的にはその國の國内問題それ自身であつた. かくて,歴史的趨勢から見れば,かつて民族形成の中から生れた民族主義は,その發展につれて民族侵略主義,排外主義になり,國内的には階級對立を抹殺し,勞働大衆の鬪爭を壓殺しようとする反動思想の一翼になつて行つた. これが,資本主義と民族主義との歴史的性格である. しかして,この性格の基本的矛盾は,自ら「世界經濟」をつくり出しておきながら,また世界的協調のいろいろの試みもするのであるが,結局において自己の民族國家的範囲■を頑守するとともに,民族的制限や植民地領有などによつて結合せざるをえないこと,民族主義を稱えながら,他民族の自決權に對して決定的な打撃を與えざるをえないことなどにあつた. ゆえに,この問題の解決は,各民族の自主・自決を貫徹しつつ,完全に自由・平等の基礎の上で各民族國家が連合することであつた. しかして,かかる連合をはたしうる者が各民族内の誰であるか,どの階級であるかということが決定的な問題になつた. それは國内で生産の社會性を代表し「世界經濟」的連合に最も深い關心をもつ階級であつた


ただし,國際主義は,一國内で社會的變革が起りうること,またそれが發展しうること,さらに民族的傳統や文化を最大限に發揚することを決して拒否しない. 事實はその逆である. 問題は先進諸國のかかる段階における民族問題とは究極において國内問題であり,階級問題であるという點にある. これを具體的にいえば,先進諸國においては,その自らの帝國主義政策,民族侵略主義に反對して,平和と自由な連合と社會改革とを戰いとる問題であり,植民地諸國においては,民族自決とそれを基礎にした自由な連合と新民主主義的變革とを戰いとる問題である. しかして,世界的には前者が基本的であるが,この先進諸國における状態は,例外的と見えるような事態の下でも依然として貫徹している


日本は中國とは異なり,すでに獨立の資本主義國として確立してきた國である. したがつてまた,その民族問題の在り方も中國のそれとは非常に異なつている. とくにその點では,その問題と國内問題との不可分の關係を見ることが必要であるし,正しい國際主義の理解の缺如が問題を混亂させること,いわゆる民族主義が民族問題を解決しないことなどがつよく指摘される必要があるように思われる

*1:原文の傍点強調箇所を太字,下線で示した