『服部之総著作集 3 歴史論』理論社,1955/06/15 p.242-p.259

【7】


「最新25年間に,諸状勢は甚だしく変化したけれども,この『宣言』のなかに展開されている一般的原則は,大体においてはいまもなお,その完全な正しさを保持している. 個々のことは,ところどころ,改めねばならぬものがあるであろう…」(『宣言』1872年ドイツ版への序文)


第三章の社会主義文献の批判は,1847年までのものだから,今日(1872年)では欠陥のあることはいうまでもない,と述べられてある一文のまえに,右の一文が,その段落の冒頭におかれていることを,忘れてはならない. ドイツ絶対主義とその物的根柢たる封建的土地所有,その精神的支柱たる「小ブルジョア」根性の打倒を当年の集中的な使命としていることがいちばんよくあらわれていた第三章は,すでに見たごとくリヤザノフ的な意味で陳腐になった. それどころかそれは,却って「1847年までを扱うのみであるがゆえに」百年のちの今日の日本において,諸原則とともに,一層「その正しさを保持している」ともいえるのである. その証拠としてわたしは,このあいだ書いたばかりの一文「啓蒙家羽仁五郎の新ユトビアン教条」(『評論』3月号)を読者の胸裡におきつつ,なお若干の補遺をここでおこなっておこう


羽仁五郎君はもちろん1848年のドイツまたは「真正」社会主義者ではなく,1948年の日本の参議院議員である. しかもかれが1948年頭にあたってかれの選挙民に贈った一文「新しきユウトピア」(『日本評論』1月号)ほど,百年前のドイツ的「小ブルジョア根性」とプルードン的小ブルジョア主義の根本的特徴をまざまざと思い出させるものはめずらしい


「扇情的」(センセイショナル)ということ - 1865年のマルクスプルードン批判の冒頭にあげられているこの特徴は「新しきユウトピア」でも特徴ある冒頭をなしている


「誰か夢なき!」だれにも夢はある. 夢はたのしいものである


夢は楽しいばかりでなく,深刻なものである. 夢は生活の解放の要求であるからこそ,夢はたのしく,生活の体験が深刻であれば,夢も深刻となるのである


ジャズの音楽の甘美な悩ましさ. ニグロにも夢があり,しかも無限のあこがれと深刻の夢がある. …


カモシカがあそびたわむれ,水牛がほえる高原」


…羽仁君がジャズにいかに通暁しているかは,かれがもっぱら啓蒙的歴史家であってまだ参議員ではなかった1946年の京都大学における三木清追悼講演の一文を読んでいらい,わたしがひそかに敬服しているところだ. たしかにプルードンもカール・グリュンも,ジャズ・ソングという「煽情的」手法(「何という衝動を人類に与えたことであろう」力点と共にマルクス)だけは,知っていなかった. もっとも羽仁君にしたところが,ふるいプルードン的煽情手法を放棄しているのではない. かれがことばのうえだけではくりかえし愛してやまぬ「日本のはたらく人民」たちのまえに,いきなりドイツ語の「原文」を長々と書いて見せるのである. その独文のあとに,こんな風に日本語を書く --


ぼくをして素直に語らしめよ. メエリングのこの言葉は,ぼくの心にとげのようにささって,もう何年にもなる. とげのない薔薇はない,ともいうが,心にささったとげはいつも痛い…(『評論』1月号)


つぎに「贋造」(ソフィスティケーション)ということ -- 「これは,イギリス人が商品の変造を指して言うことばである」


これについてはかれの「低賃金=労働価値説」と「低賃金=恐慌論」とについて,すでに「教条」のなかでのべておいたから,ここにくりかえさない. ただ,ちょっとここで思い出したから書いておくが,羽仁君によれば恐慌と資本主義的利潤の源泉は「低賃金」にあるのだが,そしてこの偉大なる学説はマルクスと共にハイエクも,リンカンも,アダム・スミスも,羽仁君同様に承知しているというのだが,おそるべき低賃金論のことはさておくとして恐慌論について言えば『宣言』第三章の分類で「反動的小ブルジョア社会主義」の代表とされているシスモンヂについて,マルクスは下のごとく述べている


「それゆえにシスモンヂにとっては恐慌ということは,リカードにおけるがごとく偶然ではなく,大なる範囲と一定の時期とにおける資本主義に具有された矛盾の本質的なあらわれなのである. 然しシスモンヂはつねに逡巡,動揺している」


リカードの先生たるアダム・スミスが,羽仁君流のおそるべき低賃金=労働価値説を知らなかったのはたしかであるが,羽仁君が正解している唯一の経済的公理 -- 「恐慌は資本主義の弊害などというものではなく,資本主義の本質から来ている」(「新しきユウトピア」) -- も,アダム・スミスとはどうやら無縁であるらしい


空想ということ--


下劣ということ--


詭弁ということ--


虚栄心ということ--


羽仁五郎君におけるこれらの特徴については,あらまし「教条」のなかで触れておいたし,触れてこなかったとしたら羽仁君の終戦後の莫大な論集の随所にころがっているものであるから,ここでは省略する



【8】

むしろわたしが読者とともにここで考えてみたいのは,百年前のドイツ「小ブルジョア主義」の諸特徴と現在の一歴史家参議院議員の思想的特徴とが,いかにしてかく符合しうるかという問題である. もしこれが偶然の符合 -- 暗合であれば,わたしは或る程度羽仁君にたいして,かれがわたくしたちにむけておこなった下劣さに倣ったというそしりをまぬがれない


だが一般的にいって,百年前のドイツの素町根性(バールビユルガーシヤフト)とその世界観的表現たるドイツ哲学が,めんめんとして昨日までの日本の土壌のうえに栄誉ある余命を保ってきたことは,一の客観的事実であるばかりでなく,またその社会的政治的根拠を伴っていたのである


明六社雑誌』第38号(1875年6月=明治8年)の巻頭を圧する西周の大連載論文「人生三宝説」は下の如く起筆されている


欧州哲学史(フィロソフィ)上,道徳(モラール)の論は古昔より種々の変化を歴て今日に至り終始一轍に帰する事莫し. 中にも■時の説(王山クイニゲスベルグ)の哲学派,韓図(カント)の絶妙純然霊智(トランスセンデンタルライネンフェルニュンフト)の説,非布■(フィフト),酒児林(シルリング),俾歇児(ヘイゲル)の観念学猶盛んに行はるることと見えたり. 然れどもかの実理派(ポシチピズム)[…(アウグスト・コント)]起りてより頗る世間の耳目を一新したりと見え,諸大家の説も漸く実理に基つきたること多きか中に,かの寳雑吾(ベンサム)の利学の道徳論(ウチリタリアニズム)〔…埃此■列斯(エピクレス)の学派と見ゆ〕を約翰・土低瓦的・■爾(ジオン・スチルワルト・ミル)氏の拡張せられたるは近時道徳論上の一大変革なりと見ゆ…


明治文化全集 18 p.236

この文章はさきにあげた『宣言』25周年記念独版のためのマルクス・エンゲルス序文におくれること僅々3年の日本で書かれたものである. 智識を世界に求むることにおいて何ぞそれいたらざるといわんや. しかもプロシアのごとく,智識を世界に求めつつ大いに皇基のみ振起されたのである. これだけ知っている西周にして10年前和蘭留学の際マルクス共産主義について聞くところがなかったとはいわれない. 10年前といえば1865年--第一インターナショナルがうまれ,普墺戦争が始まり『資本論』第一巻が出た前後のことである


そしてハイデルベルヒ時代に話を戻しますと,大内さんたちにチャレンジを受けてから,約1年半か,2年ぐらいハイデルベルヒで,一緒に勉強していたのですが,大内さんも,糸井さんも,実に猛烈なる勢いで勉強していて,我々もそれに感化されて,実に猛烈な勉強をしていたのであります. その頃のドイツは,第一次世界大戦後の革命が起って,革命の後に,現在の日本の情勢よりもずっと進んで,社会民主党の政府というものが出来て,言論思想の自由が与えられて,色々なパンフレットが実にすばらしい勢いで沢山出て来て,毎日10冊くらいのパンフレットが出ていたのであります. で我々--糸井,大内,三木,私たちは,たいてい,晩飯の後でネッカアの河の畔に集って,お互いに一日どういうふうに勉強したかということを話し合う習慣が何時の間にか,出来上っていたのでありますが…


羽仁五郎「わが兄,わが師三木清


羽仁君の京都大学でのこの講演(『回想の三木清三一書房所収)はなかなかおもしろいものであるが,ネッカア河畔の2年間に,かれは大内兵衛氏について,もっとマルクス経済学を勉強しておいたらさらによかったのである


西周に話を戻すと,わたしが考えるに,西周が仮に羽仁君のごとくマルキシズムの本を便所の中で一日に一冊づつ読んだとしても,一向興味は覚えなかっただろうと思われる. というのも慶応元年の日本の学界には,1847年のプロシアよりもはるかに遅れて頑健な「小ブルジョア根性」が支配していたけれども,ライン州もウェストファーレンも有しなかった東洋のプロシアにとっては,近代的プロレタリアートの息吹はなお不可解な未来のことに属していたからである. 日本的小ブルジョア根性の頑健さは,ちょんまげ時代が散髪にかわって -- 羽仁君に言わせればそれと共に日本の封建制は消えてなくなったというのだが -- 生野鉱山や佐渡鉱山の暴動(明治2年及び4年生野,5年1月佐渡)や高島炭抗抗夫暴動(明治5年12月)や斬絞以下の処刑者27913人を数えた大分県農民反乱(明治6年4月)以下大小の農民一揆等々の出来事にもかかわらず『明六社雑誌』のお歴々の頭脳の中に,ちょんまげを散髪に変えただけのことで,中身は少しも変質せずに頑存していたのである. 羽仁君はこの『明六社』の同人だった福沢諭吉先生の偉大さについて,戦時中と同様に,終戦後においても煽情的に書きかつ語り続けてやまぬが,あるいは韓図が考えように[ママ],人は外界を律する範疇を自己のうちにそなえているものとみえる


ふたたび西周に話を戻せば,かれはその当時陸軍省四等出仕筆頭文官で,あと7年たつと,ポツダム宣言受諾の日まで効力をもった「軍人勅諭」の執筆者となって,男爵たるべき基礎をつくるのであるが,先に引用したかれの韓図から俾歇児に及び,墺及斯多・■度から寳雑吾・■爾に至る,和蘭の哲家阿伯曾米爾直伝の該博な智識と軍人勅諭とが,いかにして一個の人間の中で矛盾なく合致したかという謎は,上来『宣言』にしたがってドイツ・小ブルジョアイデオロギー主義のカント以来の伝統を案内されたものにとっては,すでにして何らの謎でもないであろう


すでにそれが謎でなくなった以上は,西周の明治前半期から,羽仁君やわれわれが時を同じくして卒業するころにいたる日本の帝国大学の哲学や史学の教壇で,なにがゆえに俾歇児でなく韓図が横行し,マルクスでなくリッケルトが盛行したかについても,多く疑問をもつ必要はない. すべては明治10年代以来意識的計画的にプロシアに象ってつくられた大日本帝国の「絶対王制,封建的土地所有」とともに打倒されねばならぬ運命をになう「小ブルジョア主義」の社会的土壌のうえに生起している


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