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天皇制「打倒」と「護持」の論戦がかしましい時,学校教育に於ける歴史授業は一部進歩的教員の場合を除いたらそれはむしろ痴呆的表情を示した. そして進歩的歴史家や教員がなおぐづついているうちに,歴史教育を逆用することの効果を長い経験の上から最もよく知つている文部省が1945年11月いわゆる「新時代に即応」する「国史教育の方針」を決定発表した. いわく「捉はれざる立場に於て史実をせつ明し…独善偏狭の史観を払拭し…我が国家社会の発展の皇室を中心とする一大家族国家の形成過程たる史実を明かにす」越えて1月27日安倍文相は連合軍司令部民間情報教育部長ダイツ准将との会談において「今もし民主主義の立場からのみ日本歴史を書きかえるなら,これも再び歪められたものができるであろう」と語つた. しかしこれらが「実は民主主義の立場をあいまいにし,それとならんで他の非民主主義の立場を導入することであり」「実は昔のままの軍国主義神秘主義反科学的迷妄を残そうとするのである」とは井上清の痛破するところであつた(歴史学研究 122号 時評)


しかしすでに12月,歴史は修身,地理と共にその授業を停止された.「教養ある平和的な責任感のある市民をつくり出すために意図された」新しい教科書が準備されて連合軍最高司令官によつて使用を承認される日まで. それは日本人民にとつて反省と準備の時間でなくてはならなかつた. 国史授業停止によつて学校における歴史教育は中等学校における東洋史,西洋史のみを残し,これまた「暫定」教科書といわれるものが戦争中の教科書の不当部分に墨を塗つて配給された. そこには依然「神武天皇」が年代の比較に引合いに出されて「建國二千六百年」がくすぶつていた


新たに生まれる歴史教育がいかにあるべきか. この空白時代を迎えて実際に生徒児童の悩みを直接感ずるはずの中小学教員の側から積極的な活動が見られず,歴史教育研究会の如きが地方的に結成されても従来の官僚のエジエントとしての伝達講習会を一歩も出でず今後の歴史教育の改革が教員組織そのものに問題をはらむことを語つたのである. こうした混迷に一声を放たれたのはわが歴史学また歴史教育民主化のために終始一貫した苦闘を捧げて今日を迎えた羽仁五郎である. 12月20日自由懇話会主催「教育民主化のための研究会」に於て「歴史教育の転換」は何よりまず「自から考え,結論を先にせず,世界的な関連を絶えず忘れずに考えてゆく」ところにあることを進歩的教育家に呼びかけ,歴史研究会はこれに先立つて11月「国史教育座談会」を開催し,従来の歴史教育に教員の自主性なく,その発言は教育技術の末節に限られ,自ら封建的軍国主義支配の支柱となり了つたことを指摘し,今後の歴史教育論は歴史学者の立場から起こらねばならぬこと,歴史学者歴史教育家としての,歴史教育家は歴史学者としての自覚をもたねばならぬことが論議され,とくに師範,高等師範教育の反動性に対しても鋭い批判を述べたことは注目されたのである(歴史学研究 122号)


この間,かつての「國民精神文化」の西田直二郎が「國民教育の課題」(潮流 2月号)をまた,文部省から追放された丸山國雄が「歴史教育の方針」(國民の歴史)を書いても民衆は横を向くばかりであり,かつての「国防国家論」土屋喬雄の「日本史再建の具体的方針」(世界4月, 潮流2月等)もその「経済史」家的ギルド根性は井上清をはじめとする進歩的歴史家の指摘するところとなつた