祖父の証言 11/21 更新分

(ここまで、2014年9月26日までの更新分)


Q、看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパン屋にされたという少女に対し、


どのように言ったのか、もっと具体的に?


A、『俺たちゃ命がけの仕事に引っ張り出されて、


いつ死ぬか分からないような仕事をさせられているんだ、


おめえらは男と遊んで金もらえるんだから良い商売じゃねえか、


日本に逆らったら殺されるんだぞ、慰安婦やりなさい、


おめえらは日本の兵隊のために役に立っているんだから、


不満を言うなんて間違ってるぞ』などと言った。


Q、それは、当時の兵隊はみなそのように思っていたのか。


慰安婦を強制することを悪いことだと思っている兵隊は居なかったのか。


A、居なかったと思うよ。みんな笑って慰安所に行っていた。


しかし自分は一方でその少女のことをかわいそうに思ったのも事実ではある。


朝鮮人は、「日本の兵隊はひどい」と言って、当時から日本を恨んでいた。


(※↑こんなことをされたらどこの国の人でも日本を恨むと思う)


Q、金はどのくらい慰安婦にあげたのか


A、当時は一ヶ月分の給料は約2百円だった。現在のお金で言うと2〜3万くらいじゃないか?


それを全部、慰安婦にあげたりした。


Q、全部あげた?他に給料の使い道はなかったのか


A、なかった。食事は配給だったし、服や装備品も配給、寝る所は兵士宿舎、


酒(チャンチーという、こうりゃんで作った酒)もタバコ(ほまれという銘柄)も配給だった。


チチハルには飲み屋もあって、行ったりはしたが・・・


でも基本的に、月二百円で足りた。全額慰安婦にあげたりした。


Q、それでは、朝鮮人慰安婦は結果的に大金持ちになったのではないか


A、そうかもしれないな。しかし、タダで遊んでも良かったんだ。


Q、慰安所に行く時はどのようにして行ったのか?


A、慰安所に初めて行ったのは、自分がチチハルに着いてからすぐのこと。


中隊長や小隊長など、上の人が兵隊を集め、みんなでまとまって行った。


行ったのは毎週日曜の、野戦が休みの時など。月2〜3回行った。


慰安所に着くと、隊長が、「お前はこの部屋に行け、お前はここだ」などと割り振りを決めた。


Q、それでは、兵隊一人一人が勝手に行けて、自由に女を選べるとか、


そういうシステムではなかった?


A、そうではなかった。上の人に引率されて行ったんだ。女も自由に選べたわけではない。


Q、チチハルで、日曜日以外は何をやっていたのか


A、「匪賊」の討伐。つまり治安維持。


匪賊を討伐して治安が良くなったので、中国人を殺すなという通達が出た。


しかし実際に殺しても罪に問われなかった。


匪賊が居て危険なため、全体的に個人行動はできなかった。


Q、じいちゃんは、朝鮮人を殺したことはなかった?


A、朝鮮人は殺さなかった。


Q、中国人(匪賊)、ロシア人、シベリアの原住民、パラオの原住民、アメリカ兵、


このうちじいちゃんが殺したのは?


A、中国人の匪賊は殺した。あとは殺していない。


チチハルでの野戦で、周りが草むら、田んぼのようなところで、


匪賊らしき集団が12人くらい、向こうの家に逃げていこうとするところを、


後ろから自分含め3人くらいで撃って殺した。


一人当たり10発くらいは撃ったんじゃないか。使ったのは小銃。


10mくらいの距離だったと思う。警告なしで、いきなり不意打ちで撃った。


団体行動をしているということは悪いことをしているんだと判断した。


死体の確認はしなかった。


それでも上から怒られたり罪に問われたりすることはなかった。


さらに中国人の家に上がりこんで食べ物(米・こうりゃん・とうもろこしなど)


を没収したりした。中国人は怖がって食べ物を差し出した。


押入れの中などもかき回して探したりした。


中国人は「食べ物はやるから助けてくれ」という態度だった。


中国人の家では、なぜか婆さんしかいなかった。


男は老若問わずおらず、女も若い女は居なかった。


ドカタや慰安婦として連れて行かれるのを恐れてどこかに隠れていたのではないだろうか?


Q、アメリカ人も殺していない?


A、殺していない。パラオで自分らが居たところはアメリカ軍は素通り、


映画に出てくるようなジャングルの中でのゲリラ戦のようなことはなかったんだ。


アメリカ軍の艦砲射撃などで死んだ人は居たよ。


ただ、隣のペリリュー島は飛行場があったためにアメリカ軍に狙われ、


ひどい玉砕を食ったんだ。


Q、チチハル慰安所とはどのようなところであったか。


ネット上から見つけてきた画像だが、http://i.imgur.com/kuaOWat.jpg このような感じか。


A、そう、このような感じだった。粗末な小屋だった。


ただし、天井はもっと低く、お前の背丈(※私は身長176cm)くらいだったんじゃないか。


敷いてあったのは布団やゴザやベッドではなく、固い毛布のようなものだったと思う。


そして掛け布団が一枚あった。


中はかなり狭く、一部屋あたり2〜3畳ほどであったと記憶している。


Q、朝鮮人集めや慰安所の経営に、「業者」は携わっていなかったのか。


本当に業者を見たことはないか。


A、うん、やはり業者というのは見たことがない。軍が直接やっていたんだと思うよ。


Q、中国人の慰安婦というのは、居なかったのか?


A、中国人慰安婦とは遊んだ記憶がない。


Q、70年も前のことをよく思い出せるね?


A、一緒に居た戦友がいれば、「あの時はこうしたよなあ」などとお喋りして


もっと思い出せると思うが、みんな死んでしまったので、なかなか思い出せないよ。


Q、韓国は今、日本は従軍慰安婦問題について誠実に対応しなければならない、


などと言ってきているが、日本はそうすべきだと思うか。


謝罪や賠償をすべきだと思うか。


A、当時には当時のやむをえない事情があったわけで、


確かに今考えれば悪いことをしたとは思うが(罪悪感はある)、


当時の朝鮮は日本の属国として日本の世話になっていたわけで、


いまさらそれを謝罪や賠償する必要はないと思う。


当時は、敵国の兵隊を殺せば「良い事をした」と褒められた。


他にも、日本の首相はアジア各国に謝罪してきているが、それは必要ないと思う。


当時を生きた人達に聞けば、みんなそう言うんじゃないか?


(※↑祖父がこう言い切ったのは自分も意外でした。


しかし考えてみれば、当時を生きた人達からすれば、これが自然なのかもしれません。


しかし自分は祖父の考えには反対です。


慰安婦強制は当時としても国際法違反の犯罪ですし、


同じことを日本が他国からやられたらやはり許せないと思うのが当然だと思うから)


Q、パラオには本当に慰安所はなかったか?


A、なかった。クロンボ(祖父の使う差別語。原住民の意)の女なんて


どこにいるか分からなかったな


Q、パラオではどのような生活をしていたか?


A、普通に島の中で暮らしていた。


やしの木の「シントウ」(やしの実がなる部分)を生で食べたら


原住民に怒られた。他にもやしの実、バナナ、他の果物などを食べていた。


敗戦後の「収容所生活」というのも、収容所という建物があったわけではない。


島の中で普通に暮らしていただけだ。


Q、パラオでの戦闘では何の仕事をしていたか?パラオにも馬を連れて行ったのか


A、馬は連れて行っていない。基本的に壕の中に隠れて、速射砲を撃つことくらい。


自分がいたところはアメリカ軍は素通りで、直接に激しい戦闘は無かったんだ。


(※このサイトの最初のほうで、私はパラオでの戦闘がいかにもすさまじく


激烈なものであったかのように誇張して書きすぎたようです。


アメリカ軍の艦砲射撃や機銃掃射などで、59連隊の兵隊が大勢死んだのは事実なのですが、


祖父から詳しく話を聞いてみると、どうも祖父の居たところは


基本的にアメリカ軍は素通りで(アンガル島・パラオ本島ともに)、


直接に激しい戦闘は無かったようなのです)


Q、敗戦はどのようにして知ったか


A、米軍機か日本軍機か忘れたが、とにかく飛行機からビラが撒かれて知った。


それを米軍のデマだとか疑ったりはしなかった。


やがて上から「内地に帰る」という命令が来た。


Q、敗戦後なぜすぐに日本に帰らなかった?なぜ収容所生活を?


A、日本に帰る定期便の船がなくなってしまったんだ。


Q、当時から兵隊の間では慰安婦を指す言葉として


「パンパン」という言葉は使われていたのか。


その朝鮮人の女の子は自ら「パンパンにされた」と言ったのか。


自分らのイメージでは「パンパン」とは敗戦後、占領軍相手に春を売った女性のことを


指す様に思えるが?


A、当時の兵隊はみな「パンパン」という言葉を使っていた。


その朝鮮人の女の子も、


「看護婦募集に応募して来てみたら騙されてパンパンにされた」と


自分でそう言った。


Q、駐屯していた、大きな川の近くとはどこか。思い出すことはできないか。


A、思い出した、嫩江(のんこう)だ。非常に大きくていい川だった。


(※このサイトhttp://d.hatena.ne.jp/dempax/20141103


を参考にさせて頂きました;祖父は最初は思い出せなかったのですが


紙にその名前を書いたらああそうだ、「のんこう」だ、と思い出せました。


もっとも、近くとは言っても、


駐屯地から嫩江までは数百mの距離はあったとのことです)


※昔の写真を「フォトギャラリー」に、チチハルでの慰安所に関する他の人の証言を


「証言集」にまとめました。


(ここまで、2014年11月21日更新分)