人民文庫主催「東京講演会」築地小劇場1936/10/18 「散文精神について(講演メモ)」

散文精神について(メモ)

    廣津和郎


突然この講演会に出席しろという迎えを受けて,私は此処につれて来られたのであります. 私は前もって何を話そうかという準備はしていませんでした. それで自動車でつれて来られる間に思いついたのですが,この会の主宰者である『人民文庫』の人達は近頃散文精神という事をしきりにいいます. その散文精神が何を意味するものであるかを私は詳かにしません


併し「散文精神」という言葉には私も多少の責任を感じます. それは「散文精神」という言葉は使いませんでしたが,「散文芸術」というものについて,私は比較的早く物をいったからであります. --- そこで私は今此処で「散文精神」について考えてみようと思います. 『人民文庫』の人達のいう事と一致しないかも知れない. 併しこの言葉が,今こうしてこの時代に擡頭して来たという事について,私は私だけの解釈を此処で述べてみたい


近頃はロマンティシズムの擡頭を主張する人達があります. 林房雄君などがそれで,日本は今や大きな飛躍をしつつある. そしてそこに大きな希望があり,大きな夢があり,そしてそこにロマンティシズムの擡頭しなければならない理由があると,こうその一派は主張するらしいのです. 林房雄君は文学者はもっと派手な服装をし,青や緑の……これは林君のいった通りの色ではないかも解らないが,. 兎に角,そういう目立つ色の服装で,銀座街頭を練り歩いても好いのだといっています. 外国のロマンティシズムの詩人たちがそうして待ちを練り歩いたと同じように,われわれも今現在のこの日本でそうやるべきだと,林君はいうのです


併しそんな意味でのロマンティシズムが擡頭すべき理由が今果してあるでしょうか. そうではなくて,寧ろ私などはその反対だと思います. われわれの文化がロマンティシズム勃興を感じる理由が,私には少しもないように思われます. 寧ろその反対で,この国にはアンチ文化の嵐が,今吹きまくっていると思われるのであります


それ等について詳しくいう事は許されませんが,アンチ文化の嵐といえば,多分諸君にはお解かりだろうと思います


こういう時代に『人民文庫』の人達が散文精神を主張されるのは,まことに理由なき事ではないと私には思われます. 前にも申した通りこの散文精神という言葉に『人民文庫』の若い人達がどういう意味を表そうとしているのかという事は,私は詳かにしませんが,併し私流にこの言葉がこの時代にどういう意味を持つものであるかという事を述べてみたいと思います


それはどんなことがあってもめげずに忍耐強く執念深くみだりに悲観も楽観もせず生き通して行く精神 - それが散文精神だと思います. それは直ぐ得意になったりするようなそんなものであってはならない. 現在のこの国の進み方を見てロマンティシズムの夜明けだとせっかちにそれを謳歌して有頂天になって飛び歩くようなそんな風に直ぐ思い上がる精神であってはならない. と同時にこの国の薄暗さを見て直ぐ悲観したり滅入ったりする精神であってもならない. そんなに無暗に音を上げる精神であってはならない. そうではなくて,それは何処までも忍耐して行く精神であります. アンチ文化の跳梁に対して音を上げず,何処までも忍耐して,執念深く生き通して行こうという精神であります. ぢっと我慢して冷静に見なければならないものは決して見のがさずにそして見なければならないものに摺えたり戦慄したり眼を蔽うたりしないで何処までもそれを見つめながら堪え堪へて生きて行かうという精神であります


私は散文精神をそう解釈します.『人民文庫』の人達の意見は知りませんが,私は今述べたもののように,それを解釈します. そしてこの言葉を『人民文庫』の人達が主張している事に賛成します


林君流のロマンティシズムのなど芽生える余地は現在のこの国には絶対にありません. それを何か藜明[れいめい]が到来したように早合点して,直ぐ思い上がるような楽天主義に,その散文精神は絶対反対であると共に,又必要以上に絶望して悲鳴を上げるペシミズムにも,この精神は絶対に反対なのであります


私はこの散文精神と関連して散文芸術の時代的の意味をも述べたいのでありますが,その問題に入ると長くなりますし,又散文芸術については二三回書いた事もありますので,此処では述べません. 私の話はこれで終ります



【出典】『広津和郎全集 第9巻 評論2』中央公論社,1989/02/20普及版(1974/08/10初版) p.274-p.275


広津和郎全集 (第9巻) 評論2