弓削欣也「大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考

提出する事態に発展し、軍司令官以下の 4名は、翌年、予備役編入となった。折しも舘陶事件が発生した日から 4日後の 12月 31日は、御前会議においてガダルカナル撤退が決定された時期でもあった


本事件の与えた衝撃は大きく、両事件を重視かつ憂慮した陸軍中央部は全軍に通達を発するとともに、翌昭和 18(1943)年 4月 8日には東京で行われた防衛総司令官、軍司令官等会同において、東條陸軍大臣が「・・・軍内外ノ現況ヲ察スルニ軍紀上惡質事犯漸・ノ兆シアルハ洵ニ深憂ニ堪ヘザルトコロニシテ、戰局ノ彌久擴大ニ伴ヒ此等事犯?釀ノ素因ハ今後漸ク其ノ多キヲ加ヘントス。今ニシテ拔本塞源之ガ芟除ヲ圖ルコトナクンバ軍紀弛緩スル所軍秩紊亂シ・ 得テ望ムベカラズ」17として軍の秩序確立だけを内容とする異例の訓示を行うに至ったのである


イ 奔敵(逃亡)


奔敵(逃亡)も昭和 18(1943)年から急増していたが、翌年 8 月に陸軍省が作成した「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」18の中に、昭和 18年 6月に北支で発生した


16 北支方面軍司令部「舘陶事件ノ概要ニ就テ」(防衛研究所図書館所蔵)


17 『偕行 記事』特號 824號(昭和 18年 5月號)1頁


18 「軍紀風紀上等要注意事例集(昭和 18年 1月 28日陸密第 255號別冊第 8號)」(防衛研究所図書
館所蔵)


弓削 日本陸軍における犯罪及び非行 47


事例が掲載されている。これは現役兵が軍隊生活を厭忌し 2回にわたり逃走離隊を繰り返し懲罰処分を受けたが、その後も不寝番勤務を怠ったのを発見され、さらに自己担当の自動車部品の不足を再三注意されたことにより奔敵を決意、中隊長の軍服を窃取、着用して自動貨車を操縦し逃走を図ったというもので、単に軍隊生活を忌避したということだけではなく、度重なる失態に進退窮り、遂に奔敵に至ったという事例である。


ウ 将校の犯罪及び非行幹部(将校、下士官)の犯罪等は昭和 18(1943)年から増加の傾向を示していたが、将校の犯罪等の具体的事例を『偕行 記事』の中の「決戰下の軍紀振作に就て」19にみると、現役大尉が南方第一線に赴任途中、公務に名を借り上司に無断で帰国し、公金を私用に使って情婦と温泉地等において遊興を重ねた例や、また、防空中隊長が陣地付近の民家に妻を呼び寄せ下宿し、部隊と下宿間に軍用電話を架設した上、兵舎建築残材と部下兵を使用して炊事場を建築した例、などがある


最初に挙げた現役大尉の事例は、南方第一線に赴任途中に起こったものであるが、将校の赴任に関しては、当時から問題視されていたようで、昭和 18 年 2 月には陸軍次官名で「將校赴任ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 485號)」20が出されている。同通牒では「將校ノ赴任ヲ嚴正ナラシムベキ件ニ關シテハ從來?々注意セラレアル處ナルモ左記ノ如キ適當ナラザル事例相當多ク時局下戰力ニ及ボス影響甚大ナルモノアルニ鑑ミ・・・」として、家事整理及び軍装品調達、並びに規定外の休暇帰省の為に赴任が遅れる者、また赴任途中、諸所に立ち寄って見物、滞在等をして速やかに赴任せず、甚だしい者は内地から満州への赴任に 1ヶ月を要した者、さらに交通機関の選定に当を得ず漫然と日時を経過する者、赴任先不明のため遅延する者などの具体例が挙げられている


また、防空中隊長の事例に関しては、前掲「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」の中でも紹介されている。これには「・・・長期ニ亙リ公々然トシテ部下ヲ使役シテ住宅ノ建築ニ著手シアリタルカ如キハ全ク意想外トスル所ニシテ純一無雜ナルヘキ軍人ノ常識ヲ以テシテハ窺ヒ知ル能ハサルヘカラス マ マ」と極めて厳しい所見が付けられている


これらの他、「軍紀風紀上等要注意事例集(別冊第 8號)」には、収賄、窃盗、住居侵入、傷害、器物破損、猥褻行為、逃亡等、16件の将校による犯罪・非行等の事例が掲載されているが「警戒警報下ニ於ケル將校ノ非行ニ關スル件」として昭和 19(1944)年 6月から 8月までの 2ヶ月間に内地において発生した警察官、警防団員への暴行等の事例 6件を挙げて、将校以下の自粛自戒及び上級将校による監督指導の徹底も要望している。中でも現役

19 『偕行 記事』特號 846號(昭和 20年 3月號)117頁


20 「將校赴任ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 485號)」(防衛研究所図書館所蔵)48


大尉が第一種警戒警報下、飲酒の上、白い私服姿で市中を散策中、防空補助員より防空服装を整える様に注意を受けたが暴言を洩らし、尋問にあたった巡査に暴行した事件及び現役少尉による類似の事件一件は、昭和 19 年 8 月に陸軍次官名で出された「防空警戒下ノ忌ムへキ犯行絶滅ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 3436號)」21にも一例として記載されている。同通牒は冒頭で「軍人軍屬ノ自肅自戒ノ徹底ニ關シテハ ニ?次要望セラレタル所ニシテ現戰局下特ニ軍民一體ノ實ヲ発揮スヘキ要緊切ナルモノアル秋別紙ノ如キ犯行頻發ノ傾向アルハ遺憾トスル所ナリ」として全陸軍将兵に本事例を紹介し、事後この種非行の処罰を厳格に実施して再発防止の徹底を図るよう指示している


当時、陸軍は軍民の離間を非常に憂慮しており、前掲の通牒が出る 4ヶ月前の同年 4月には「・・・上級幹部ノ率先垂範ヲ更ニ一層徹底スルト共ニ部下ニ對スル監督指導ヲ強化シ嚴ニ戒メテ反感、疑惑ノ根底ヲ一掃シ以テ國民ノ信頼ニ對ヘ眞ニ戰爭遂行ノ中核タル陸軍ノ眞價ヲ發揮スルニ萬遺憾ナキヲ期セラレ度依命通牒ス」として陸軍次官名で「軍人軍屬等ノ自肅自戒ニ關スル件關係陸軍部隊ヘ通牒(陸密第 1658號)」22を出しており、軍用自動車を利用し農村あるいは店舗の食糧品を強制的に買い集めたもの等、5 件の事例を挙げて自粛自戒を求めている。しかし、この種事案は中々減少せず同年 11 月には再び陸軍次官及び参謀次長の連名をもって「軍ノ自肅自戒ニ關スル件陸軍一般ヘノ通牒(陸密第4708 號)」23を出すに至っている。同通牒では「・・・依然軍ノ威信ヲ失墜シ特ニ現戰局下軍民離間、反軍思想ノ因ヲ釀成スルカ如キ事例尚其ノ跡ヲ絶タス速カニ累次注意セラレタル趣旨徹底ノ爲具體的對策ヲ講セラレ度依命通牒ス」として、軍民離間及び反軍思想の要因となる 7件の事例を挙げ具体的対策の実施を命じている


軍はサイパンが失陥した昭和 19 年 7 月以降、内地の戦備強化に着手し、沿岸防御強化のため「本土沿岸築城実施要綱(大陸指第 2080 號)19.7.20」に基づき逐次、陣地構築等を実施しており24、陣地構築等のため各地に宿営して作業を行っていた25。このため軍人と民間人との接触の機会も増加していた。また食糧に関しても国内食料事情は急迫しており、軍は昭和 18年中期の主食において一割、副食物において二割の現地自活を企図し、昭和 19 年には各軍に現地自活要員を増加した。しかし示された所要量を自給することは容易ではなく、これを確保するために軍の一部には本来の作戦準備、特に部隊の錬成を抛


21 「防空警戒下ノ忌ムへキ犯行絶滅ニ關スル件陸軍一般ヘ通牒(陸密第 3436號)」(防衛研究所図書
館所蔵)


22 「軍人軍屬等ノ自肅自戒ニ關スル件關係陸軍部隊ヘ通牒(陸密第 1658號)」(防衛研究所図書館所
蔵)


23 「軍ノ自肅自戒ニ關スル件陸軍一般ヘノ通牒(陸密第 4708號)」(防衛研究所図書館所蔵)


24 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土決戦準備<1>』(朝雲新聞社、1971年)116-117頁


25 同上、521-522頁


弓削 日本陸軍における犯罪及び非行 49 擲して、これに専念するという現象を呈するものまで現れたのである26。以上、犯罪等の実態について見てきたが、次にこれら犯罪等にはどのような要因があったのか明らかにして行きたい


2 犯罪等の要因分析


(1)間接的要因(環境的要因)の分析


ア 大量動員による軍の質の低下憲兵司令部が昭和 16 年 4 月『偕行 記事』に掲載した「幹部の指導監督不充分と犯罪發生の關係」の中にも「殊に最近最も注意を要することは、軍屬の犯罪が激・した點であって、今次事變以來軍屬の採用が頓に・加し、素質も若干低下せる・・・」とある27、また昭和 20年 3月『偕行 記事』に掲載された「決戰下の軍紀振作に就て」の中にも、「兵備の飛躍的擴充に伴ひまして、將校以下の素質が急激に低下致して居りますことは必然的の結果でありまして、皆樣も十分御承知のことゝ存じます。」とあり28、当時から犯罪等の増加の背景として大量動員による軍の素質の低下が問題視されていた。陸軍の兵力は昭和12(1937)年には 95万人にすぎなかったが、同 20(1945)年には実にその 6倍の約 550万人に拡大した29。また現役の占める割合も序々に低下し、昭和 16(1941)年以前は約60%であったものが、同 19(1944)年末には約 40%に、同 20年には約 15%以下となっていたのである30。