目次

抗日朝鮮人の闘争記


    金奉火華 キム テヨプ


第II章 闘志は炎のごとく

II-1. 闘争の序幕

東京に着いた私は池袋にある李圭八(イ・ギュパル)が下宿している一間にともに過ごすことになつた 李圭八は慶尚北道の人で私より三歳年上 彼と初めて知り合つたのは東洋フェルト工場で働いている時だつた 彼は体格に比べ頭が大きくその上その大きな口が広く横に裂けたようで別名をメギ(雄豚と雌牛のあいのこ)といつた 彼は少しも体裁ぶったところや洗練された風がなく田舎者の風貌をしていたが豪放で大人しく塞ぎがちな私をよく笑わせ特に親しくした 彼は何時も私を弟と呼んで 自分は兄を自称していた


彼は何時も私を愛し行動を共にして東洋フェルト工場にいた時 初めて東京に来てその後は常に私と手紙をやりとりしていた 私は東京に来て李圭八同志と共に過ごしながら 東京の労働条件や学校関係 そして韓国人の消息について多くのことを知らされ又これから私たちがやつていくべき韓国人労働運動についていろいろと議論し計画をたてていつた


何日か後私は東京駅前にある海上ビルディング新築工場現場に行って日雇労働を始めた これは私が今までしてきた工場での従来の労働をやめ自由労働の現場に飛び込んだことになる 私はかくして自由労働者となることで自分自身の時間を多くもとうとし この自由労働者の中で韓国人を糾合する労働運動をしようと心に決めたのである


当時の東京は活気に満ちた国際都市であつた 東京港には外国商船の往来が頻繁でその船が吐き出す黒い煙は街の空を覆っており連日新築される建物は都市の外観を変貌させていた だから東京は近代都市としての型を備えつつあつた頃であり学ぶものが多つた 例えば外国人の活動がそうであり外国から導入してくる産業施設がそうだつた こうした都市生活の結果として私は事物を見る観念の一大変革を体験させられた


こうした私の精神的変革はさらに確実で深みのある学問的基盤を求めるものだつた それで私は大学に通うことの出来るように受験勉強をするため正則英語学院に入学した そこには夜間部があつた 私は昼間は工事場で労働して夜は学校に通い熱心に勉強した そうして1920年6月のある日 日本大学社会学科に入学した


日大に入学して何ヵ月にもならないうちに私たちは下宿を移すことにした その理由は次のようなものであるワ日本人で松浦淑郎という人がいて九州に生まれ韓半島とアジア侵略政策の実務機関である東洋拓殖会社に勤務していた そして彼は当時の日本で流行していたトルストイ文学に心酔しその影響を受けて人道主義者を自称していた 彼は東拓の社員として韓国はもちろん 満州そしてシベリア・モスクワ等を旅行する機会があつた 彼はモスクワに行ってトルストイを慕いトルストイの生家と彼が放浪し悩んだというヤスナヤ・ポリャーナなどの地を見てまわつた 人道主義者としての所信をいよいようち固め心機一転して自分の生活を一大変革したのであつた


そこで日本に帰ってから彼は巣鴨にある自宅の一間を朝鮮人のために開放した そしてその部屋に鶏林莊という名前をつけた その部屋に入ったのは金基豊(キムギブン)・李圭八 そして私の3人だった その時期に鶏林莊に出入りした者には梁柱東(やんじゅどん)・安漠(あんまく)・金裕■(きむうじん [金]へんに[真])らもいた 彼らは私と親しみながら私に文学の勉強をしろと勧めていた だが私は彼らに


「君たちが私の文学的素養を惜しんでそのように進めてくれる気持ちは私には分からないではない けれど若い時から私は貧困のためにひどい苦痛をなめてきた 人間には復讐の本能があるんじゃないか 貧乏は私の仇だ 貧乏のために私は学校の勉強も出来ず父母にもつかえることが出来かった だから私はこの貧乏に勝たなくちゃならない わが民族の貧乏に勝たなくちゃならない 私はそのために社会学の勉強をするのだ」


と説明したりした この時期に私たちは夜は学校に通い勉強し 昼間は工事場に行き働きながら韓国人労働者糾合に力をつくした


ところでこの当時東京に住む韓国人は いろいろな主義と思想をもつ者が多かった その中で鄭泰成(ちょんてそん)という人がいた 彼は無政府主義を信奉した人で1921年にソウルで発刊された『新天地』という雑誌に無政府主義の元老と呼ばれた それ以降は東京にいる私たち青年からも無政府主義者の元祖として高く評価された ところが彼は生活能力が全くなくて三度の食事にも事欠き着ているものもひどくみすぼらしく夏には汗くささを漂わせていた


その頃東京には有島武郎という有名な人道主義文学家がいたが彼は北海道にある数十万坪の農地を小作人に無償で分配し社会を大変に驚かせた人である そして毎火曜日には