【A】

人心があまり弛緩し放漫に馴れると天が人間に戒告を與へる 大正大震災を「天譴」と觀る人の多いのも尤もなことである


あまりに突然な激変に人々の心は平衡を喪つた 喪つた所に 今まで因襲の力で押へ付け 糊塗し來つた人間の眞實の姿が現はれて來た 若し人間の本性が神我と獸我とから成つているものならばその神我と獸我とが共に交互に顔を見せたものと言へよう


大抵の人の語る所では 大震動が襲來する瞬間にどーんといふ大音響があつたといふ 果して然らばその大音響は人間の腐亂しかかつた眠りを神が醒さう爲に放射した號砲にあらずして何ぞやである


當初の大激動に於て人間の心に大なる恐怖が先ず宿つた その恐怖は同様を生み 焔や破壊を見ることに依て更に錯覚を起し 終に理性の鏡を曇らせて了つた 斯くして蜚語は蜚語を生み 錯覚は錯覚を生み 殺戮があり 排撃があつた


他の一面に於ては人間に潜在する同愛の心が頭を擡たげ[擡たげ もたげ p.663] 犠牲の精神が活躍し初[まま]めた


斯くして漸次前に述べた動揺や錯覚が鎮まるにつれて 相愛犠牲の精神の目覚めが増し 協同調和の努力が拂はれ異常の精魂が傾倒されて終に復興の大業を成すの素地が作られたのであつた