『宮本百合子全集 25 日記(3)・書簡』を読む

日記は,1945年1月20日で中断,ポツダム宣言受諾前後は無く,1945年9月5日から再開(9月5日は身辺記事のみ,第88回臨時帝国議会=9月4日 id:dempax:19450905 に関する記載は無い)


1945年9月12日 岩国行きの汽車の中で


教育総監部の課長をしているという大佐,自決覚悟の由. 小さな軍人魂のこりかたまり,小さな口,武骨な横柄さ,しかしそのわれめから見える人間らしさ. はにかんだ顔をしてちょっと教訓的なことをいう. 自分の隣の傷痍軍人


帝大農学部出身35歳, 北支で負傷,陸軍病院に一カ月半. 看護兵のことは「ヨーチンヨーチン」と気合をかける. 片脚大腿より切断. 子供一人五歳男の子,鉱山統制会社につとめている World Current Newsをもっている. いろいろに動揺して故国に向っている感情


「どういうもんでしょう,国体論というような本は,かくしておかんけりゃいけないものでしょうか」


やがて下車駅の京都近くになって前の大佐にきく


「われわれはあくまで国体護持に終始する」


答えは一本棒の如し. つまり答えになっていない. 自分解説する


「そんなことしなくていいでしょう. どういう本は読んではいけないという狭さがあったから,国体論までいかがわしい本が出たんです. これ迄主観的に読まれていたのなら,客観的に世界的な眼で読み直さなくちゃいけないでしょう」


この卑屈さがこれ迄の日本の戦時教育の姿だ



広島実にひどい(雨)地下道丈のこって,片腕のない少年駅員が冷笑的な意地悪さで戸惑っている旅客につんけんにものを云っている


宮本顕治実家での記録9月17日で中断 1946年5月1日より再開,一行から数行の記載,婦人民主クラブ関係を拾うと


1946/6/7


婦人民主クラブの新聞編輯集会議


1946/6/13


12時,後楽園 婦人民主クラブ常任 ユリちゃんいじめの会


1946/6/16


婦人民主クラブ世話人会,午後1時 後楽園 (欄外に)創刊号


10月7日で中断,1947年3月10日の記載で中断,8月8日,宮本顕治実家での諸々で再開 ,8月26日迄「m」[宮本顕治?]との会話,スタンダールパルムの僧院』など,1948年1月29日再開迄中断


1948/2/14


太平洋問題研究会のレポート,大森さんに手つだって貰って口述始める


1948/04/05


人民の作家とはどういうことであるか. 政治家とどう違うか. 人民の作家は政治家よりも人民の惨の中での激励者であり慰安者でなければならない


1948/05/05


三度御飯を食べること. 一時間ずつ散歩をすること. これを守ることに力を入れて,間で仕事をするぐらいに考えないとやってゆけないと知った


12月31日で中断,1949年5月22日再開


1949/07/05


国鉄総裁下山行方不明,いかにもComが暴力をふるったように扱っている


1949/07/07


下山,おかしいところで,ひかれている. この辺に女がある(自分)自殺説をつよく感じる


7月11日で中断,三鷹事件,松川事件への言及は無い,1950年1月1日再開,1950年1月1日,再開(コミンフォルムの野坂批判は1月6日)


1950/1/22


細胞の集会で,疑問を出しても,それは反党的であったと自己批判させ,松川事件の被告が,所感の前半は正しく後半はあやまりであるというのは,ほめるべき態度である,というようなことを律,本部集会で話す


1950/01/24


天皇の威信失墜急速である. アメリカは,日本のKPはチトー化しつつあるとよろこんでいる由


1950/01/25


労働組合をこわしておいて,こんどは一般の統一戦線で,という方式. 右へ右へじりじり行く可能がある. そうさせているもの徳田の無理論性,志田のあいまい性,律のキツネ性,西沢のムコ根性と食わせられている党官僚の卑屈さ


1950/05/03


党内闘争を論ず…劉少奇 これを載せて,ボルシェビキ的の中から官僚主義批判をのぞく


10月7日で中断,1951年1月1日再開し1月9日まで