林茂夫・松尾高志編集解説『写真絵画集成 日本の基地3 戦場と後方』日本図書センター,2002/03/25


p.8-p.18 田村茂「九十九里射撃演習場」「内灘闘争」


戦後最初の組織的基地反対に立ち上がったのは千葉県九十九里片瀬海岸の漁民であった


【p.11】


米占領軍は1945年9月の進駐直後から日本の各地で国土を軍事基地として接収してゆき講和発効時(1952年)には700ヶ所を超えた. 基地接収によって生活を脅かされた住民の抵抗が起きたが, 当時の吉田首相は「占領下の軍事基地承認は日本の義務」(1950年2月参議院答弁)と住民に背を向けた. 米軍基地に対する最初の組織的なたたかいは千葉県房総半島東部,太平洋に面する九十九里浜で起きた. 1948年4月, 同浜一帯が「米軍高射砲演習場」として接収され隣接海域も「射撃指定区域」に指定された. 毎日午前中から夕方まで陸から海に向かって撃たれる大砲の轟音がこの地域を覆った. 漁民は射撃中は海に出ることは出来ない. 魚も逃げる. それでなくても貧しい漁民たちの生活の場が奪われた. 1950年2月, 漁民たちは抗議行動に立ち上がり「どかんではじゃこ(鰯)も寄らない九十九里」「鶏も卵を生まぬ植民地」などのびらを貼り巡らし演習中止と漁業補償を訴えた. 占領軍は10人以上を軍事裁判にかけ弾圧したが, 全国から支援・激励が寄せられ, 演習場は1955年に撤収となった.


【p.13】

日本の基地―写真・絵画集成 (3)