【1】32年テーゼ作成への参加に就いて


山岸一章『不屈の青春 ある共産党員の記録』新日本選書,1969/04/30 p.45-46


プロフィンテルン第5回大会に参加した飯島さんを日本代表団団長であつた紺野与次郎現東京都委員長は


「モスクワで久しぶりに会った飯島さんはパッチリした大きな目を輝かせていましたが, 東京モスリンでのはげしい労働で左の肩が右より上がっていて, 痛々しい感じを受けました. 大会では, 初めての日本からの婦人労働者の代表というので非常に重視されました. 飯島さん自身も大きな責任を感じ, 山本懸蔵同志の指導の下に日本の婦人労働者の報告をつくり, 大会で演説する等, 大会の成功のために懸命な努力をしました. 大会が終ってからも, 各国の青年婦人と合宿しながら, 林間学校でコミンテルンの指導者から討論形式で教育を受けました. このときも彼女は, 積極的に紡績労働者としての活動経験を出して,どう活動したらいいかを討論しました. 32年テーゼをつくる最初の会議にも出て, 日本の実情を報告しました


と語っています. まもなく紺野同志は帰国し, 飯島さんはソ連に残って東邦勤労者共産主義大学に入学しました. あとで会った森田しげさんは, 飯島さんの字が縦書きではそうでもないのに, 横書きはとてもきれいなのに気付きました. そしてそのことをいうと飯島さんは「わたしは日本では小学校しか行けなくて, ソ連でやっと勉強出来たものだから」と笑っていたそうです. …


【疑問点】


32年テーゼ作成に日本人共産主義者はどのように関わったのか 27年テーゼでは再建連絡会の主要参加者がMoscowへ招集されたわけだが


富田武・和田春樹『資料集 コミンテルン日本共産党』⇒


議事録や会議での発言


コミンテルン執行委員会政治書記局政治小委員会 議事録 1931/2/11【資料No.80】


コミンテルン執行委員会幹部会での日本問題討議に於ける岡野(野坂)の発言【資料No.82 - No.84】


同書解題に要旨次の記述


(1)プロフィンテルン第五回大会日本代表に32年テーゼを説明


(2)コミンテルンでの討論には野坂・山本懸蔵・プロフィンテルンにいた山本正美が参加


【飯島喜美が参加したテーゼの会議】は(1)の説明会ではないだろうか?



【今後の課題】


32年テーゼ成立史への深入りは避けたい



『前衛』No.892(2013/3)「連載スターリン秘史(2)コミンテルン第7回大会(上)」p.213


この時期(コミンテルン第12回総会 1932/8〜9月) スターリンコミンテルンの活動の全てにどれだけ本格的に関わっていたかは正確に把握出来る資料はありません. 私が最近調べ直した日本問題での「32年テーゼ」に至る過程を見ても, 問題はコミンテルンの日本関係の担当部署で処理されたようでその討論にスターリンが関与した形跡は全く見られませんでした. この点から見てもこの時期のコミンテルン執行委員会ではその後の時期とは違って大局的な方向付けの枠の中では多くのことがコミンテルン指導部の討議に任されていたと見ることも出来ます……


【今後のすすめ方】


(1)不破先生の「32年テーゼ」成立史研究結果を寝ながら待つ


(2)村田陽一コミンテルンと日本』『資料 コミンテルンと日本』を寝ながら読む


(3)山本正美『激動の時代に生きて一共産主義者の手記』をめもをとりながら読む