土屋文明(抄)

それから5年後、弾圧が極に達していた時代に『アララギ』1935年(昭和10年)11月号を飾ったのが以下の6首であった。



 某日某学園にて


       土屋文明


・語らへば眼かがやく處女(をとめ)等に思ひいづ 諏訪女学校にありし頃のこと 


・清き世をこひねがひつつひたすらなる 處女等の中に今日はもの言ふ 


・芝生あり林あり白き校舎あり 清き世ねがふ少女あれこそ


・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに


・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ


・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき




「某日某学園にて」6首が「伊藤千代子がこと」3首への変身の経緯


 土屋文明が昭和10年に詠んだ「某日某学園にて」6首は、昭和17年に『六月風』に収録、戦後も昭和49年自選『土屋文明歌集』岩波文庫に収録されている(65頁)


 今回、伊藤千代子顕彰碑碑文の一部として、文明6首のうち後半3首を刻むことになったが、何故この3首なのか。


 伊藤千代子像を鮮明に表象した土屋文明とともに、それ以上に鮮烈に千代子の短い生涯を記憶の中に保存していたのは、塩沢富美子(野呂栄太郎夫人)であった。伊藤千代子と塩沢富美子の出会いは昭和2年4月であり、獄は府中刑務所で、一緒であった。千代子のことについて、長い沈黙ののち、ほとばしるようにして書いたのが、1976年(昭和51年)5月号『信州白樺』への寄稿「信州への旅」であった。


前年10月墓参をすませている。


 塩沢富美子はさらに10年後1986年『野呂栄太郎とともに』を著わしたが、この中でも再び千代子の回想を記している。



 塩沢富美子は、土屋文明とはまたちがった形で、千代子との終生忘れがたい思いを歌に詠み綴った。1979年(昭和54年)、「追憶」と題するものである。



・市ヶ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり


・花の下に佇みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後になりぬ


・きみによりはじめて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく 


・学窓を去りにし君はあらしの中 くぐりて捕われき三月十五日


・獄の君を変名の便りで慰さめし われ同じ道に蹤く燃ゆる心で


・余りにも疾く獄に送られしわれに 勇気づけんと君は呼びかく


・縞の着物束ねし黒髪長身のきみは 歩くふりしてわれに呼びかく


・運動場にだされし三十分に何気なく きみは獄窓に近づきて呼ぶ


・君と交せし二言三言のその言葉 忘れ得ず生きし五十年を


・ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る


・身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二十四歳


・君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ


・年ごとに春さきがけてこぶし咲く わが胸の白き花君はかえらじ



 言語に絶する苦難の時代を生き延びた塩沢富美子は、戦後・新しき時代に生きることになるが、片時も夫・栄太郎そして同志千代子のことを忘れることはなかった。その真骨頂を後世・未来に伝えねば・・・の使命感に燃えて生きたといってよい。


 かくして、前記『信州白樺』への寄稿「信州への旅」、そして『野呂栄太郎とともに』として結実することになった。この取材の過程で、塩沢富美子は土屋文明を訪ねている。


 おそらく、生涯秘めてきた千代子への思い、上記「追憶」歌にこめた思いを文明にこもごも語ったにちがいない。そして千代子の実像をようやくにして知った文明が、塩沢富美子のたっての願いにこたえて、93歳にして、やや利かなくなった腕をふるわせながら、渾身の力をこめて、新たな歌を詠む心境で書き綴ったのが、3首であった。歌題はもはや「某日某学園にて」ではなく、「伊藤千代子がこと」であった。



「伊藤千代子がこと」


・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに


・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ


・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき



 この自筆の3首は塩沢富美子の部屋を飾っていたが、その後日本共産党中央委員会へ寄贈されたものである。


 こうした歴史経過を考慮して、党中央の配慮もあり、また3首を碑文の一部として刻むについて、遺族のご理解も得られ、晴れて伊藤千代子顕彰碑の一角を飾ることになった次第である。


《伊藤千代子生誕100年記念事業の一環として碑文は直筆のものに代えられた。》



 さて、土屋文明が伊藤千代子らについて詠った歌はこれらにとどまらない。


昭和22年(1947年)、「諏訪少女」と題して再び千代子の回想を詠んだ。『自流泉』(昭和23年)に、「諏訪少女」の一連が載っている。



・われ老いてさらばう時に告げ来る 諏訪の少女のきよき一生を


・書き残し死にゆきし人の数十首思ひきや跣足(はだし)にて遊びし中の一人ぞ


・槻(つき)の木の丘の上なるわが四年 幾百人か育ちゆきにけむ


・湖の光る五月のまぼろしに 立ち来むとして恋しなつかし


・処女なりし君をほのかに思ひいづ 淡々しくわりんのその紅も



昭和30年(1955年)、『青南集』の「諏訪を過ぎて」の5首中、


・訴ふと川を渡りし少女等の 歎きの数も水の上の霧


・清き生(よ)を紅葉づる山にかくせれば 道に会はさむ真処女もなく


・少女等は七緒を貫ける真珠(しらたま)の 散りのまにまに吾老いにけり



  土屋文明は、松本高女へ転任と決まっての告別式で、涙ぐむ生徒に「涙に甘えるな」の訓辞を残した。 目標を高くせよ、しっかり勉強するんだ、‥‥。このような苦言はすばらしく新鮮で、生徒の心に深く根をおろしたのであった。 このような土屋文明であったが故に、伊藤千代子のようにいわばひとすじに思想に殉じた生き方にも限りない共感をよせ、 深い憤りと愛おしみを寄せもしたのであった。