【海賊版】吉野孝雄「『文学報国』という名の言論統制」

【C4】吉野孝雄「『文学報国』という名の言論統制/戦争と日本文学報国会」


KAWADE道の手帖/作家と戦争/太平洋戦争70年』河出書房新社,2011/06/30 p.15


作家と戦争---太平洋戦争70年 (KAWADE道の手帖)


文学者を大同団結しようとする動きはすでに昭和8年頃に始まっていた. まず当時の内務省警保局長だった松本学が中心となって,その年の3月に「文芸懇話会」という組織ができた. これがその後の「文学報国会」への足掛かりとなつた


広津和郎の回想によれば,直木三十五がこの会の発想者で,松本学がそれに賛同して実現したとされている…


時あたかも日本が国際連盟を脱退した年にあたり,翌年は清国最後の皇帝だった溥儀が「満州国」の皇帝に即位した年であった


内務省は戦前の政府組織で,当時の地方財政や警察,土木衛生などの国内行政を担当した省庁で,警視庁や特高警察はその下部組織だった. 警保局には警務課や防犯課,保安課などがあり保安課の中に思想犯を取り締まる右翼係や左翼係が置かれていた. そこの局長だった松本学はいわば思想警察の長官のような立場の人物だったわけだ


当時すでに老大家になっていた島崎藤村徳田秋声を中心に吉川英治白井喬二などの大衆小説家,文芸家協会会長の菊池寛,久米正雄,広津和郎などに会の招待状が送られた. 月例の懇話会のほかに物故した文士の慰霊祭や遺品の展覧会の開催,奈良の正倉院日本海海戦時の旗艦三笠の見学会,陸軍大演習の参観などの行事が行われ,やがて文芸懇話会賞という文学賞が制定された


文芸統制の動きは,このように文士の単なる文学上の親睦会のような穏やかな装いをもって始まったのだった


やがて昭和12年になって「文芸懇話会」は解散し,その7月に佐藤春夫倉田百三,中川与一,林房雄などを中心に「新文化の会」として再編成される. 林房雄が松本学に働きかけて結成されたといわれ,当初43人のメンバーでスタートしたものが2年後の昭和14年には78人という大所帯に膨れ上がっていったという


思想性が曖昧な「文芸懇話会」などとは違って,松本が提唱する「皇道精神による世界家族主義の実現」という思想に共鳴して集まった関係者中心の組織へと変貌していった


時あたかも昭和14年にはヨーロッパで第二次大戦が始まり,翌年には日本,ドイツ,イタリア三国によるいわゆる「三国同盟」が締結された


以降,時代の足音に押されるように,昭和15年頃にかけて国策的な半官半民的「文化組織」が次々と結成されていった. 国策文学に邁進するという確固とした信念のもとに組織された「新文化の会」のような団体もあれば,中には思想統制からの隠れ蓑的な寄合所帯の団体もあった


昭和14年の9月には小林秀雄,中島健蔵,林房雄などを中心に,全文壇を網羅する機関の設立準備委員会が結成され,翌年10月には文芸家協会,国防文芸連盟,日本文学者会,日本ペンクラブなどの団体が集まり「日本文芸中央会」が結成される


昭和8年以来続けられてきた「文芸統制」の動きはいよいよその総仕上げの段階に到達したのだ. ここまでが「文学報国会」結成までのいわば序章にあたる