I.家族と原爆


思想形成における父親の存在


僕の思想形成に関しては親父の影響が強い. まだ小学校1年生の僕をつかまえて「この戦争は間違っている」とか「絶対に日本は負けて,おまえが何歳になったら,日本はどういう状況になる. 白い米やそばを腹一杯食える時代がきっと来る」とかそういうことを繰り返し言っていた. イナゴやサツマイモのつるを食べるしかなかった時代に,そんな良い時代が来るなんて考えられなかった. しかし,今は親父がそこまで予見していたのかなーって思う. 確かに日本は負けて今は飽食の時代だ.


親父は滝沢修の新協劇団系に属し演劇をやっていた. 広島の新天地にあった医師会館で演劇活動をやって,島崎藤村『夜明け前』とかゴーリキーの『どん底』とかを選んでやっていた. 左翼系だから当然官憲にチェックされていて,ある日,一網打尽で捕まった. 僕は親父が捕まったあの日,非常に怖い思いをした. 幼心にあれほど恐ろしいと思ったことはなかった. あれは僕が5歳頃の確か1944年のことだった. 母が髪を振り乱し,わなわなと震えて,僕は我が家に重大なことが起きたという思いで母を見ていた. あの時の恐怖感は,いまだに忘れられない. 親父は1年近く拘置所にぶち込まれて,相当しごかれたらしい. 歯がぼろぼろになって帰ってきた. 帰ってきても相変わらず「この戦争は間違っている」と聞かされた. 頑固一徹な親父だった. 拷問されても転向することはなかった



8月6日 -- 父親たちの死


僕は,長男,長女,次男の後だから三男. その下に弟がいて,原爆の日に生まれた幼い妹(4ヶ月で死亡)という構成. 原爆投下の日,お袋は産み月で大きなおなかをしていた. 8月6日の原爆投下の時,僕は親父たちの死んだ家にはいなかった. しかし,お袋が微に入り細に穿ってその時のことを話してくれて,そのことが頭に入っているから『はだしのゲン』では,そこにゲンがいて助け出そうとした,ということにした


お袋はいつも夢でうなされていた. 挟まれた弟の体がどんなに引っ張っても抜けない. そうこうしているうちに火気が迫って弟が今度は「熱いよ」と言い出し,親父も「なんとかせえ」と言う. 長女の英子は柱に挟まれたのか一切声がしなかった.「お母ちゃんも一緒に死ぬんだ」と泣き叫ぶお袋を,運よく通りかかった町内の人が「もうあきらめんさい. あんたまで一緒になって死ぬことはないだろう」と言って連れて逃げてくれたそうだ. お袋が振り返ると,家はものすごい炎で「お母ちゃん,熱いよ〜」と叫ぶ弟の声がもろに聞こえたそうだ. そういう辛酸に満ちた事柄をお袋は僕に話した. 本当に残酷な殺され方だ


その後,お袋に我が家に行って遺骨を掘り出せと言われて,長兄と一緒にバケツとスコップを持って出掛けて掘った. するとお袋の話したとおりの場所から弟の頭蓋骨が出てきた. 子どもの頭蓋骨というのは本当にきれいなものだ. しかし炎天下でその頭蓋骨を持った時は,本当にぞーと寒気がした. 頭が挟まれて動けずに,じりじりと焼かれていったのかと思うと身の毛がよだつ. 次いで四畳半の部屋から親父の,奥の六畳の部屋からは長女の頭蓋骨が出てきた. 女の子の頭蓋骨というのは表情がある. 優しい顔をしている「ああ頭蓋骨にも表情があるんだ」と思った. お袋は「英子は幸せだったあっという間の即死であれはいい死に方だったからよかった」と言っていた



原爆後の地獄絵


親父たちの骨を取りに行った時,我が家の周りは死臭でいっぱいだった. それは完全に焼け切っていないからで,まだ死体がごろごろしていた. 一番驚いたのは最後の最後の瞬間まで人間らしい感情が表れた死に方をしているということだった. 我が子がかわいいんだろう,母親が子供をぎゅーと抱き締めて死んでいる死体が,水ぶくれに膨れ上がっているから子供の顔が母親の肉体の中にめり込んでいた


土橋の繁華街の近くでは,水槽に死体がいっぱいだった. あそこは遊郭があったから,原爆投下の時は,みんなまだ寝ていたんだろう. だから火に巻かれて水槽に大勢が飛び込んだのだろう. また,長兄と二人で市内を通って帰ったのだが,広島の七つの川が全部死体で埋まっていた. 僕も漫画の中で描いているように,死体の腹が膨れ上がっている. そしてガスが発生して,腹がそのガスでブスーブスーっと破れる. そこに水が流れ込んで死体が沈んでいった


一番恐怖を感じたのは,物凄い勢いでウジがわいてハエになるということだ. 物凄いハエだった. もう目も開けられないほど真っ黒になる. そして,わーっと襲ってくる. 不思議だが原爆があったにもかかわらず,ハエは生きているのだ. そしてウジがわくのは本当に早い. あっという間にウジ虫だらけになった. 人間の体にあんなにウジ虫がわくものかと思った. 上空で動くものは何かといったらハエの群舞,広島で動くものといったら死体を焼く煙と群舞するハエだけだった


原爆もひどかったが,その後の食糧難にも苦しめられた. 僕の家族は江波というところに一時身を置いていた. 戦後は本当に飢えで厳しかった. 江波の河口には,汐が引くとあばら骨だけの死体がずらっと並んでいる. あばら骨の下の所をずっとすくっていくと,アサリが一杯出てくる. あれは人間を食っていたのだ. 人間を食ってアサリが成長している. そのアサリを一生懸命拾ってきて,食べて飢えをしのいだ



II.天皇制と差別