【海賊版】鵜飼哲 ホロコースト

ホロコースト




永山則夫の最後の抵抗の痕跡は炎のなかに抹消された。



これは通常の火葬ではない。この出来事にはホロコーストという言葉こそふさわしい。



ホロコースト≫は≪ホロス≫(全体)と≪カウーシス≫(燃焼)の合成から生まれたギリシア語である。文字どおり≪全焼≫を意味する。



第二次大戦後、この言葉がナチスによるユダヤ人絶滅政策を表す言葉として使われてきたことは周知の通りである。単なる虐殺ではなくて、虐殺の痕跡まで抹消し尽くそうとした人類史上前例のない政治犯罪。クロード ランズマンの映画『SHOAH』の公開以来、私たちの思想の地平にも、この出来事をその具体性において思考することの「不可能な可能性」が刻み込まれている。



永山の死刑を執行し激しい抵抗の跡を留めていたにちがいない彼の遺体を燃やし尽くした人々を、とりわけ、自らは手を下すことなくこの行為を命じた人々を、私は、日々何百人というユダヤ人をガス室で「処理」しその死体を焼却したナチス党員から区別することができない。この二種類の人々はどこがちがうのか。収容所の近隣に住む農民たちにとっては、ホロコーストも平穏な日常のなかの出来事だった。1997年8月2日の朝刊で永山の処刑を知った私は、あのポーランド人の農民たちとどこがちがうのか。



(……中略……)



永山の死を、19歳のときに彼が犯した罪=4件の殺人=に対する「当然の償い」であると考える人は多い。その人々は、しかし、かつて中国東北部七三一部隊の一員として生体実験にかかわった日本人医師が、今、「人道に反する罪」で裁かれ、場合によっては死刑を宣告されるとしたら、それもまた「当然の償い」であると言うだろうか。日本という社会を知る者として、私は、その可能性は小さいと思う。この国の「国民」は、国家の名による殺人に対し,個人的動機による殺人よりもはるかに寛容であるのがつねである。それはなぜか。この現状を生んだのはどんな歴史的事情なのか。この現状を変えるには何が必要なのか。



率直に言おう。私は日本の国家および企業が、植民地支配およびアジア太平洋戦争に犯した罪を誠実に認め、その罪にふさわしい償いを行うことを望んでいる。そして同時に、一日も早く、この国の死刑制度が廃止されることを望んでいる。この欲求に導かれて、私は、いつのまにか、「償い」をめぐる問いの前に立っていたのである。




出典 『文藝別冊 1998年3月号 完全特集 永山則夫』 p. 121




20120901 追記

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20120824