大江健三郎名誉毀損裁判資料/たぶん中村粲『沖縄「集団自決」・シンガポール「虐殺」の真相 教科書は間違っている』

資料出典不明ながら原告側認識を知るための資料として転載しておこう.


昭和史研究所 http://www.showashi.org/

代表: 中村粲 (獨協大学名誉教授)



出版物御案内 http://www.interq.or.jp/asia/showashi/publications.htm


中村 粲 著 『沖縄「集団自決」・シンガポール「虐殺」の真相 教科書は間違っている』 550円, 送料共850円

教科書が未だに掲載する「軍命令による集団自決」. その「虚構」はどこから生まれたのか


昭和史研究所会報バックナンバー http://www.interq.or.jp/asia/showashi/bulletin_bak.htm

第44号

沖縄県座間味島「集団自決」真相究明第二弾
自決命じたのは村役場助役 遺族補償欲しさに「軍命令」と偽る 援護係(当時)が元隊長に真相告白
書き直し迫られる歴史教科書の記述 (元海上挺身第一戦隊長 梅澤裕:兵庫県 84歳)
…集団自決の真相
…虚構作成の経緯


第43号

沖縄県座間味島「集団自決」真相究明第一弾
生残りの女性が勇気ある証言 「軍命令なかった」
「年金欲しさから……」-隊長の冤罪晴れる- (元海上挺身第一戦隊長 梅澤裕:兵庫県 84歳)
…米、沖縄へ来襲
…自決を申出た村民代表
…上陸した敵と激闘
…創作された"軍命令"
…偽証言で年金申請
…自決は村幹部が決めた
…虚構の平和運動恥ず
…証言者への脅迫
…訂正された沖縄県




教科書は間違っている http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm

教科書は間違っている



教科書は間違っている1



沖縄本島那覇から西方約四十キロのところに慶良間列島があります.

今はリゾート地としても知られますが, 歴史的に見ればここは大東亜戦争末期に激戦地となったところで, 渡嘉敷村渡嘉敷島)と座間味村座間味島, 阿嘉島, 慶留間島)では多くの住民が「集団自決」するという痛ましい事件が起きました.

この集団自決というのは, 最近ではマスコミに登場する事も少なくなっているせいか, 一般の人はあまり関心がないかもしれません.


しかし, 教育現場では少し様子が違いまして, 平成十四年度から使われている中学歴史教科書にも, その集団自決が全八社のうち六社にまで登場し, うち五社はこれが「軍命令」によって行われたと書いているんです.

記述の仕方はどれも似たり寄ったりなんですが, 例えば日本書籍の教科書には次のように書いてあります.

「日本軍にスパイ容疑で殺されたり, 『集団自決』を強制された人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず, 集団的な自殺を強制した」.

確かに, 集団自決が起こった事は事実ですし, それは本当に痛ましい事件ではあるけれども, しかし, これが「軍命令」で行われたというのは事実ではないのです.


こうした記述の背景には, 当然下敷きになった文書がいくつかあるんですが, もうそれ自体事実に反する内容になっている.

代表的なものを二つほど挙げますと, まず『沖縄県史』という沖縄の公的な歴史文書があります.

その戦史編(『沖縄県史』第八巻各論編七. 一九七一年四月二十八日発行)には, 集団自決が「軍命令」で行われたということが次のように書かれています.

「いよいよ, 敵の攻撃が熾烈となったころ, 赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」「慶良間列島のもう一つの座間味島でも, 友軍の命で集団自決が行われた」

後で詳しくお話しますが, 赤松大尉とは, 渡嘉敷島に駐屯していた海上挺進第三戦隊の指揮官で, 「集団自決」の命令を出した張本人と槍玉に挙げられている人です.


おそらくこうした記述の原型になったのではないかと考えられるのが『鉄の暴風』(編集・沖縄タイムス社. 初版発行・昭和二十五年八月十五日)で, 実は集団自決が「軍命令」であるということを初めて活字にしたのはこの『鉄の暴風』が次のように書いた所にあると思うのです.

「・・・避難中の住民に対して, 思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた. 『こと, ここに至っては, 全島民皇国の万歳と, 日本の必勝を祈って, 自決せよ. 軍は最後の一兵まで戦い, 米軍に出血を強いてから, 全員玉砕する』というのである」

こうした文書が元になって教科書でも集団自決が「軍命令」で行われたという話になっているわけですが, 実は『沖縄県史』の記述も『鉄の暴風』の記述もまったく事実ではないのです.

実際, 『沖縄県史』の場合は, まず後に発刊された戦史の続編(『沖縄県史』第十巻各論編九. 一九七四年三月三十一日発行)で, 「慶良間諸島の戦争記録のなかには, 渡嘉敷島の集団自決の記述なども含めて, 誤記と欠落が少なくない」と指摘され, 沖縄県教委の刊行物(『沖縄史料編集所紀要』第十一号. 一九八六年三月発行)では, 「軍命令」はなかったという関係者の手記を載せるなど, 事実上の訂正が行われています.

しかしながら, 教科書を書く時には, そうした文書は参考にされていないようです.


『鉄の暴風』の方はどうかというと, これも信憑性に欠ける.

例えば, 赤松大尉と同様, 集団自決の命令を出した張本人として指揮される座間味島の梅澤少佐(海上挺進第一戦隊長)は, 『鉄の暴風』の中でこんな風に書かれているのです.

「隊長梅澤少佐のごときは, のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた事が判明した」


けれども, 梅澤少佐は米軍との戦闘中に重傷を負って退却し, 行方が分からなくなっていただけで, 昭和二十一年には病院船で内地に帰ってきている.

つまり, 生きているのに死んだ事にされたわけですからこれは明らかにデッチアゲです.

にもかかわらず, この記述が『鉄の暴風』から削除されたのは昭和六十年代に出た第九版で, それまでは訂正も何もなされていない.



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では, どうして集団自決のような悲惨な事件が起こったのか.

それを知る為にはまず, 沖縄戦に至る経緯というものをきちんと押さえる必要があります.

でなければ, 単に「悲惨な事件だった」「日本軍はひどかった」というイメージがのこるだけで, 何も見えてきません.


沖縄戦は軍民合わせて十数万の犠牲者を出したといわれ大東亜戦争の最激戦でしたが, それ以前の沖縄は, 昭和十九年十月十日に「十・十空襲」と呼ばれる空襲があったぐらいで, ほとんど平和だったんです.

しかし, 昭和二十年に入ると硫黄島が戦場となり, ここが陥落すれば次は台湾か沖縄のどちらかに来るだろうという状況になった.

日本軍はもし米軍が沖縄に来るならば, 慶良間列島のように小さくて地形の険しい島ではなく直に本島に来るだろうと予想し, 慶良間列島海上特攻の基地をつくった.

海上挺進隊という「海の特攻隊」を座間味島, 阿嘉島慶留間島, 渡嘉敷島に各一個戦隊(隊長以下百四名)ずつ三戦隊置き, 米軍が沖縄本島に攻めてきたら, 背後から舟艇で奇襲する手筈を整えていた.

この舟艇とは幅二メートル, 長さ五メートルくらいのベニヤでできた一人乗りのボートで各戦隊に百隻ずつありました.

これに自動車のエンジンと百二十キロの爆薬を二つ付けて, 敵の航空母艦などに角度三十度で突っ込み, 直前に切り離して米艦に爆薬をぶち当てようとしたわけです.


ところが, 米軍はわが方の予想に反して先に慶良間列島にやってきた.

米軍の狙いは, ここを艦艇の停泊地として確保し, 沖縄上陸の補給基地にしようというものだったのです.

慶良間攻略は三月二十三日, 米機動部隊の空襲によって始まりました.

上空を埋め尽くした無数のグラマンは, 島々の集落から山中までしらみつぶしに機銃掃射を浴びせ, ガソリンを撒いた上に焼夷弾を投下した.

島民たちは防空壕に避難したり, 物陰に伏せたりして難を逃れましたが, 村の公共施設や民家はその過半が焼失しました.

一方, 我が軍はそれに対してどうしたかというと, 実は一発の応射もできなかったんです.


海上挺進隊は特攻隊だから若干の軽機関銃と小銃程度の装備しかないし, 基地の防衛に当たる基地隊というのはいたけれども, その主力(六, 七百名)は沖縄の第九師団が台湾に転出した穴埋めとして沖縄本島に移ってしまい, 慶良間には二, 三百の部隊しか残っていなかった.

こういうことですから, 唯一とれる方法は持久戦だけで, 海上挺進隊等はそれに備えて山の中に立て篭もるしかなかったのです.

米軍はなんの反撃もなかったから, 慶良間海峡にゆうゆうと大艦隊を侵入させ, 島の周りを完全に包囲した.

それで二十四日夕刻から猛烈な艦砲射撃を加えてきたのです.

艦砲の破壊力は, 爆撃とは比べられないほどものすごいものです.

それで以って畳二枚に砲弾二十一発が撃ち込まれたというほど目茶苦茶な砲撃をしてきたものだから山野は瞬く間に焦土と化した.


海上挺進隊の舟艇もこの艦砲射撃でほとんどが使用不可能になりました.

三月二十五日午前, 米軍はまず阿嘉島に上陸.

またしばらくして座間味島にも上陸した.

そこで山の中に立て篭もっていた海上挺進隊は秘密保持のため残っていた舟艇を海に沈め, 斬り込み隊を編成して刀と手榴弾だけでどんどん斬り込んでいったのです.

だけど, 向こうは機関銃ですから勝負になりません, ほとんど全滅してしまった.

やがて慶良間列島全域がほぼ制圧され−小競り合いは七月まで続くんですが−四月一日から沖縄本島で本格的な戦闘が始まるという事になるわけです.

大まかな流れでいうとそういうことなんですが, 慶良間の住民にしてみれば, 平和に暮らしていたところに突然無数のグラマンが飛んできて, それが終わったと思ったら艦砲射撃の雨あられ.

ひっきりなしに砲弾が飛んでくるわ, 村はどこもかしこも燃え上がっているわで逃げ場もない.

おまけに米軍が上陸して来た.


当時は, 捕まったら女は散々あそばれた揚げ句に刺殺され, 男はローラーで轢き殺されるとみんな信じていた.

敵の手にかかって死ぬくらいなら皇国の民として潔く死のう, そんな気持ちになるのも無理はない.

そうした混乱の中で集団自決が起きたわけです.

数は今でもはっきりしていないんだけれども, 慶良間列島全体で七百名前後ということです.



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今度は具体的に個別のケースを見ていきましょう.

まず座間味村の場合からお話したいと思います.


ここに村の女子青年団長をしていた宮城初枝さん(当時は宮平姓)という人の手記があります.

それによると, 世間では海上挺進第一戦隊の梅澤裕隊長(少佐)の命令によって住民が集団自決させられたことになっているけれども, 事実は宮里盛秀という村役場の助役が集団自決を主導したというのです.

当時, 彼は助役として行政全般を取り仕切ると同時に, 兵事主任, 防衛隊長も兼ねていましたから, 米軍の上陸が間近に迫っている段階では, 住民のとるべき手段をいち早く決定する立場にあった.

それで上陸の始まった二十五日の夜, 宮里助役は村民に非常米の配給を行い, その後, 収入役, 若い吏員(役場の職員の事), 小学校校長, 女子青年団長だった宮城初枝さんを集め, 五人そろって梅澤隊長のところへ行ったんです.


そして梅澤隊長の前に出た宮里助役はこう願い出た.

「もはや最期の時がきました. 若者たちは軍に協力させ, 老人と子供達は軍の足手纏いにならないよう, 忠魂碑前で玉砕させようと思います. 爆弾をください」と.

当時は「集団自決」ではなく, 「玉砕」と言ったんです.


しかし, 梅澤隊長は軍刀をついてじーっと考え込んで, 「今晩は一応お帰り下さい, お帰り下さい」と, その申し出を断り, 弾薬も何も渡さなかったというんです.


ところが, その帰り道, 宮里助役は宮平恵達という若い吏員に向かって, 住民が避難している各壕を廻ってみんなに浜辺の忠魂碑前に集合せよと伝えるように命令した.

つまり, そこにみんなを集めて集団自決させようとしたわけです.

なぜ軍に断られたのにそんな命令を出したのか.

おそらく梅澤隊長の所へ行く前の時点で村役場の幹部と相談して事前に決めていたんだろうという説もあるんだけれども, それはあくまで推測であって真相は誰にも分かりません.

ともかく, 集合の指示を聞いた村民の多くは, 大人も子供も晴れ着に着替え, いわば死装束で忠魂碑前に向かったんです.

ところが, 行こうとしても米軍の照明弾が撃ち上げられて, 浜は昼間のように明るかった.

これでは危なくて行けないという事でみんな引き返し, 結局, あちこちの壕で集団自決が起きたという事です.

宮里助役のいた農業組合の壕では六十七人が集団自決.

宮里本人と収入役, 吏員もこの壕で自決しました.

また小学校の校長は別の壕で自決しています.


ただ, 宮城初枝さんは, 宮里から重要書類を忠魂碑前に運ぶようにと命令され, 別行動だったので一人だけ生き残ったんです.



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事実はこういうことなんですけれども, 戦後になって「集団自決は軍の命令で行われた」という「虚構」が村ぐるみでつくられたのです.

ここで重要な役割を果たすのが, 先程お話した宮里盛秀という助役の弟です.

この弟は戦後名字が変わって宮村幸延と言っているのですが, 沖縄戦のときは九州にいて, 戦後は那覇で働いていた.

しかし, 昭和二十八年に座間味村の村長から「集団自決はお前の兄さんがやれといったんだから, 弟のお前が後の処理をしろ」と呼び戻され, 村役場で遺族(戦没者, 自決者等)の補償業務を担当するようになったんです.


ところが, いざ担当してみると, 集団自決は援護法の対象ではないということが分かった.

ちょっと援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法. 昭和二十七年施行)について説明しますと, この法律は制定当初, 軍人・軍属を対象としていたのですが, その後, 軍と何らかの関係があれば準軍属として扱うということになった.

軍と関係があったかどうかというのは, 要するに軍の命令があったかどうかが判断基準になる.

例えば, 軍に部屋を貸したとか, 軍と一緒に生活したとか, 軍の命令で塹壕を掘ったとか連絡に行ったというのは, 全部入ることになったんです.

ただ, 単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりしたというのは対象にならない.

集団自決の場合もこれと同様, 対象に入っていなかった.

そこで宮村幸延は, 集団自決の場合も援護法を適用してくれと厚生省に掛け合ったんです.

むろん厚生省の係官は集団自決は法令の対象にはならないと断った.

でも, 宮村幸延は「法令をつくってくれ」としつこく食い下がった.


そうしたら係官が「軍命令があったのなら・・・」.

こう言ったもんだから, 早速, 村に帰ってみんなに諮ったところ, 軍命令があったということにしようということになった.

で, その方針に基づいて必要書類を作成し厚生省に申請した結果, 集団自決の負傷者や遺族にも年金(障害年金, 遺族給与金)が支給されたというわけです.



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しかし, 昭和五十年代になって, 軍命令は事実ではないということが発覚する.

先程, 宮城初枝さんが五人の中で唯一人生き残ったという話をしましたが, 年金などを厚生省から貰う為に「軍命令にしよう」ということになったとき, 村の長老から呼び出され, 「梅澤隊長の命令だということにしてくれ」という圧力がかかった.

もちろん宮城初枝さんはそんなウソはつけないということで一旦は断ったのですが, 住民が集団自決の命令は軍からの指示と思い込んでいたこともあって断り切れず, ウソの証言手記を書いた.


援護法の適用を申請する村の公文書には, その手記も含まれていたそうです.

ここで考えなければならないのは, なぜ住民達が集団自決の命令を宮里助役の命令ではなく, 「軍の命令」として受け取ったかということです.

私はおそらく宮里助役が防衛隊長を兼務していたことが関係していると思うんです.

というのは, それまでも軍の命令−作戦に必要な木の切り出しや荷物の運搬など−はすべて防衛隊長である宮里助役を通じて住民に伝えられていました.


だから, 米軍の攻撃の中で, 忠魂碑前に集まれという命令が出された時, 受け取った住民の方が「ああ, これは軍から来ているな」というふうに考えたとしても, これは無理もない.

ところが, 『沖縄県史』に収録された住民の証言録には, 集団自決が「軍の命令」とは一言も書かれていない.


実は証言の聞き取りに当たったのは宮城初枝さんの娘さんなんです.

その娘さんが聞き取りを始めた当初, 住民達は「隊長から玉砕命令があった」と言っていたのですが, お母さんの宮城初枝さんから「もう一度よく確認しなさい」と諭された.

それで再度詳しく聞き取りを行ったところ, 住民達の証言は事実関係としては「役場職員の伝令が来た」「忠魂碑前に集まれと言われたから」となり, 誰も明確に「隊長命令があった」とは言わなかった.

それで証言録には「軍の命令」というのが一言も載らなかったのです.

だいたい, 当時の状況を思い起こしてみると, この時点で部隊は山の中に立て篭もっており, ほとんどの村民は軍人の姿を見ていない.


直接命令を受けたり, 死ねと迫られることも勿論なかったわけで, これはやはり思い込みだったと思うんです.

話を戻しますと, その後宮城初枝さんは『家の光』という雑誌の懸賞論文にそのウソ証言を含めた戦時中の体験を綴って応募するんです.


どうしてそんなものを出してしまったのか事情はよく分からないけれども, 結果的にはそれが入選し, 多くの人の目に触れることで遺族や部隊関係者から問い合わせが来るようになった.

その中で, 梅澤さんが健在ということも分かったのです.

それで宮城初枝さんは梅澤さんに謝らなくちゃいけないと思って手紙を出し, 昭和五十七年六月, 座間味島で行われた慰霊祭で三十数年ぶりに梅澤さんに会った.

そこで宮城初枝さんは「虚構」が生み出された背景から何から洗いざらい話して, 心から謝罪した.

梅澤さんはそれを聞いて胸のつかえが全部とれたといいます.


というのも, 梅澤さんはその間, ものすごく辛い境遇に置かれていたからです.

昭和三十三年頃, 週刊誌が梅澤少佐や赤松大尉こそ集団自決の命令を出した張本人だという記事が世の中に出回った.

それ以来, 職場にいられなくなった梅澤さんは職を転々とし, 息子さんが反抗して家庭も崩壊状態になった.

もうよっぽど反撃に出ようかと思ったけれども何を言っても敗残の身.

猛火に飛び込む蛾の如くなってはならないと隠忍自重していたというのです.



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不思議なことに, それ以来梅澤さんの冤罪を晴らすような出来事が次々と起こった.

昭和史研究所に送られてきた梅澤さんの手記(『昭和史研究所会報』第四十三号, 第四十四号所収)によると, 宮城初枝さんと会ってからしばらくして自称反戦運動家という沖縄の人が梅澤さんを訪ねてきたという.

その人は『鉄の暴風』に登場する軍人さんに事の真相はどうだと聞いて廻っていたんだが, 梅澤さんが真相を全部話したところ, 「沖縄人として貴殿を扱うは沖縄の恥辱なり. 今後は貴殿の弁護に立つ」といって帰った.

それからしばらくして神戸新聞の記者が梅澤さんを取材しに来た.

理由を聞くと, その反戦運動家が街頭で情宣しているのを聞きつけたと言うわけです.

それで昭和六十年七月三十日付の神戸新聞朝刊に「絶望の島民悲劇の決断, 日本軍命令はなかった」という記事が出たんです.


しかし, なんといっても決定的だったのは, 例の宮村幸延が梅澤さんに直接謝罪したことです.

梅澤さんの手記によれば, 宮村幸延は復興のためとはいえ無断で勝手にやったことは本当に申し訳なかったと梅澤さんの前で頭を垂れて謝ったそうです.

その時にこういう文書も残されています.

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証言 座間味村遺族会長宮村幸延

昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた. 之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した, ためのものであります.
右当時援護係 宮村幸延 印

梅澤裕殿

昭和六二年三月二八日
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これは宮城初枝さんの話とも合う.

これによって集団自決は「軍の命令」では全くなく, 戦後補償を申請する為の便法として考え出された虚構であったことが完全に証明されたわけです.

梅澤さんによると, 宮村幸延の謝罪に対して, 自分は心中穏やかではなかったけれども, それで村が潤い助かったんだからいいじゃないかと言って, 彼を許したそうです.

これが, 今分かっている座間味島の「集団自決」の真相です.



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これまでお話しましたように, 座間味島の集団自決は「軍命令」で行われたのでは全くなかった.

集団自決として知られている事件が起こったとされる島がもう一つあります.

同じ慶良間列島渡嘉敷島です.


ある人が「こんなものがありますよ」といってある手記を持ってきてくれました.

それは比嘉喜順さんといって, 米軍による慶良間攻略作戦が行われた当時, 渡嘉敷島の駐在巡査(当時は安里姓)をしていた方が書かれた手記で, 内容は渡嘉敷島の住民に集団自決の命令を出したと言われている赤松嘉次大尉(渡嘉敷島駐屯の海上挺進第三戦隊長)が, 実際はそんな命令を出していないというものだった.

それで早速比嘉さんに接触したところ, 自分の周りには当時の関係者がまだ何人か健在だという話を聞いたんです.

だったら, 実際に沖縄に行ってみようということで平成十年四月, カメラマンを連れて取材に出かけた.


その時にお目にかかったのが比嘉さんのほかに, 赤松隊長の側近だった知念朝睦元少尉(海上挺進第三戦隊本部付小隊長), 当時十三歳で集団自決の前後の様子を一部始終目の当りにしていた金城武徳さんといった方々です.

また, 平成十四年五月にも再度渡嘉敷島を訪ねて金城武徳さんの案内で, 集団自決跡地など当時の状況を克明に取材しました.

二度の取材で関係者からじかにお話を聞いて分かったのは, 要するに昭和二十年三月二十八日, この地で三百余名の集団自決があり, それは海上挺進第三戦隊長, 赤松嘉次大尉の命令によると戦後喧伝されているけれども, 赤松大尉の命令というのはまったくのウソだということです.



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さて, 集団自決に至るまでの状況というのは, 先にお話した座間味島のケースと基本的には同じですが, 簡単に経過を振り返っておくと, 三月二十三日, 二十四日の二日間にわたる空襲と二十五日の艦砲射撃で島全体が燃え上がって廃虚になります.

そして渡嘉敷島の場合は二十六日に米軍が島の南部の阿波連という浜の方から上陸し, 我が軍は段々と追いつめられて行く.

その様子を『鉄の暴風』はこういう風に書いています.

まず赤松隊長は米軍の攻撃が激しくなってくると安里巡査を通じて, 「住民は捕虜になる怖れがある. 軍が保護してやるから, すぐ西山A高地の軍陣地に避難終結せよ」という命令を出します.


ところが, いざ住民達が軍陣地付近に行ってみると, 赤松隊長が軍の壕の入口に立ちはだかって住民を全く寄せ付けない.


それで仕方なしに高地の麓の恩納川原に下って避難用の仮小屋をつくっていたのですが, 翌日になって米軍が展開している渡嘉敷部落に避難しろという命令が赤松隊長から下された, というのです.

危ないからこっちに来いと言いながら, 行ってみたら寄るなと言うわ, 米軍がいる方へ行けと言うわ, この記述を読むと赤松隊長とはなんと冷酷無比でひどい奴だと思ってしまう.

それだけではなく米軍の迫撃砲による攻撃がいよいよ激しくなると, 赤松隊長は, 「こと, ここに至っては, 全島民, 皇国の万歳と, 日本の必勝を祈って, 自決せよ.

軍は最後の一兵まで戦い, 米軍に出血を強いてから, 全員玉砕する」と命令し, これを聞いた住民達は軍から自決用に渡されていた手榴弾を使って恩納川原で集団自決して三百二十九人が死んだ, と.

まあ, そのように書かれているのですが, これが本当の話ならまさに赤松隊長は数多くの住民を死に追いやった張本人ということで指弾されてしかるべきである.

それで私はこれは本当のことですかと, 一部始終様子を見ていた金城さんに聞いてみたんです.



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そしたら金城さんは, 『鉄の暴風』に書いてあることは全くのデタラメで「もうあの本は二度と読まない」と嫌っていた.

そもそも, 自決の場所からして違うというんです.

住民が軍の命令によって皆北の方に逃げたことは事実なんだけれども, 集まった所は恩納川原とは全然別のフルノチビという辺りなんです.

その証拠に今は此処に「集団自決跡地」という碑が建っています.

ちなみに, 恩納川原は, このフルノチビから西南に約一キロの所です.

金城さんの証言に基づいて米軍上陸後の様子を再現してみると, 概略このようになります.

渡嘉敷島に上陸した米軍はまず島の中北部にあるA高地という所を占領し, ここからさらに北の, 日本軍のいるとおぼしき西山に向かって迫撃砲を猛烈に撃ち始めた.

それがフルノチビにいた住民達の上にも雨あられのようにどんどん飛んできて逃げる場所もなくなり, これはもう駄目だとみんな思い始めた.

なにしろ捕虜になれば, 女は辱められる, 男は男根をちょんぎられてローラーで轢き殺されると信じていましたから, もう気が気じゃない.

それで民間人で構成される防衛隊が住民達に手榴弾を配り始めた.


『鉄の暴風』にはこの手榴弾は軍から供給されたと書かれているけれども, 実際はそうではなく防衛隊がどこからか手に入れた物だった.

ともかく, 手榴弾をみんなに配ったところで古波蔵村長がみんな玉砕しようと言って, 「天皇陛下万歳」を唱え, 集団自決が始まった.

二, 三十人が一塊りになって手榴弾を囲むようにして死んでいった.

辺りには自爆した人達の肉片が飛び散っていたそうです.

ただ, 住民の多くは手榴弾の扱い方が分からず不発も結構多く, そういった人達は, 夫が妻や子供の首を絞めて殺したり, 斧, 鍬でもって殺したという.

米軍の迫撃砲でやられる方がまだ死に方としてはいい方だったと言われるくらい地獄のような, 本当に痛ましく悲惨な光景が現出したわけです.

それで結局, 集まっていた住民約六百人のうち三百人くらいが死にました.

ところが, そこで死にきれなかった人達は今度は軍の陣地へ行き, 「機関銃を貸してくれ. 皆, 自決するから」と頼んだのです.


そうしたら赤松隊長が出てきて, 「なんと早まったことをしてくれたんだ. 戦いは軍がやるから, お前たちはしなくてもいい. 我々が戦う弾丸もないぐらいなのに, 自決用の弾丸なんかない」ときっぱり言ったという.

そして赤松隊長は, 安全な所に避難するようにと住民達を今はグラウンドになっている東側の空き地に行かせた.

しかし, そこでも半狂乱状態の住民達が自決を始めて, 三十人前後の自決者が出た.

その後, 住民達はぐるりと山を伝わって『鉄の暴風』では集団自決地になっている恩納川原へ行った.

実際は恩納川原には米軍の弾はまったく飛んで来なくて安全だったそうですが, ここで三百人ぐらい残った住民達が四ヶ月ほど避難生活を送って終戦を迎えたということです.



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このように, 金城さんは「軍命令はなく, 赤松隊長は自殺用の武器提供を拒否した位だ. 軍命令は赤松隊長を誹謗するためのものだ」と断言していましたが, 安里巡査, 知念少尉もやはり「赤松隊長の命令はなかった」と証言しています.

安里巡査によると, 島が米艦にぐるりと囲まれた時, まず村民をどうしたらよいかを赤松隊長に相談しようと思った.

でも, 安里巡査は米軍の空襲が始まる前日に赴任したばかりだったからこの島の地理に不案内で, 一日かけて軍の陣地を探し回り, ようやく赤松隊長の居場所を突き止めて相談したところ, 赤松隊長はこう言ったそうです.


「我々は今, 海からあがって陣地構築を急いでおるところですから, 作戦の邪魔にならない, 部隊近くのどこか安全な所に避難させておったらいいでしょう. 我々は死んでもいいから最後まで戦う. あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と.

安里巡査も住民も部隊の近くの方が安心だろうと考え, 「じゃあ, そうしましょう」と, あちこちの避難小屋を歩きながら, 部隊近くに集まるように伝令した.

ところが, 米軍の攻撃が激しくなってくる中で, 村民の中には大変な動揺が起こった.

それまでほとんど戦争状態を経験したことのない人たちばかりですから無理もない.

それで村長はじめ村の幹部たちは, 「捕虜になるようは自決したほうがまし」という意見でまとまった.

安里巡査は「戦争は今から始まる. 死ぬのはまだ早い」と説得したんだが, もう砲煙弾雨の下でみんな半狂乱になっていたから, 「どうしても死ぬ, 死にたい」「日本人の精神じゃ」などと言って聞かない.

それで安里巡査は匙を投げてしまって, 側に退いて状況を見ていた.

安里巡査は部隊に状況を報告する義務があるということで, 集団自決の輪には加わらなかったそうです.

まもなく, 古波蔵村長を中心に「天皇陛下万歳」が始まった.

皆そう叫んでは手榴弾を投げつけて自決しようとしたんだが, 不発が多くて死んだのはそんなにいなかった.

この辺の話は金城さんの証言とも一致します.

で, 軍の機関銃でも借りて死のうと, 生き残って歩ける者は部隊の陣地へ押し掛けていった.

安里巡査もそれに付いていって自決者が出たことを報告すると, 赤松隊長は「早まったことをしてくれた」と悲しんだ.

むろん, 機関銃は貸してくれなかったということです.

ですから, 安里巡査は「みんな赤松さんに責任を全部おっかぶせようとしているけど, 赤松さんは絶対にそのような命令は出していない」と述べています.

一方, 赤松隊長の側近であった知念少尉は「私は赤松の側近の一人ですから, 赤松隊長から私を素通りしてはいかなる命令も行われないはずです. 集団自決の命令なんて私は聞いたことも, 見たこともありません」と言っている.

また, 赤松隊長は村民に自決者があったという報告を受けて, 「早まったことをしてくれた」と大変悲しみ, 村の幹部某氏が機関銃を貸してくれと言うので理由を問い質したところ, 村民を殺す為だというので赤松隊長は追い返したと証言しています.



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参考までに, 赤松さん自身はどう述べているかというと, 「命令は出していない」と言っている.

これは曽野綾子さんの著書『ある神話の背景』(初版・昭和四十八年)に書いてあります.

昭和四十五年, 沖縄戦から二十五年目の時に赤松さんは慰霊の為に沖縄へ行った.

しかし那覇には来訪を知った抗議団が待ち構えていて赤松さんを取り囲み「赤松, 帰れ!」とやった.

赤松さんは無言でじっと立ち尽くしていたのですが, 抗議団は「三百人の住民を死においやった責任はどうする」などと声を荒げたもんだから, 赤松さんは, 「事実は違う. 集団自決の命令は下さなかった」と答えた.

では, 真相はどうなんだと更に問い詰めたところ, 赤松さんは「この問題はいろんなことを含んでいるので, ソッとしておいて欲しい」と, それ以上何も語らなかったという.

なぜ何も語らなかったのか, 赤松さんが亡くなった今ではもう分かりませんが, 恐らく年金(援護法に基づく障害年金, 遺族給与金)のことを赤松さんは知っていたのではないでしょうか.

前回お話した座間味島駐屯の海上挺進第一戦隊長, 梅澤裕少佐と同様に, 自分が真実を言ってしまうと, 戦後, 「軍命令」があったとして年金を貰った人達が迷惑すると考え, 言えなかったのではないか.

つまり, 自分は悪者にされても渡嘉敷の人が助かっているんだから言わない方が良いだろうと.

私はそう推測し, 渡嘉敷島の住民に年金が給付された経過等を調査している最中なんです.

ともかく, これまで紹介した証言によって, 赤松隊長が命令を出していないことは間違いない.

座間味島と同様, 渡嘉敷島でも「軍命令」による集団自決がなかったことは明らかです.

ちなみに, 慶良間列島の「集団自決」事件でもう一つ関わりがあるのは, 座間味村阿嘉島慶留間島です.

ここには二つの島にまたがって海上挺進第二戦隊が駐屯していました.


隊長は野田義彦少佐です.

私が現地で取材して聞いた話では, ここでは住民が皆自決したいと申し出たんだけれども, 野田隊長はできるだけ生きろと言って, 自決を止めたそうです.

沖縄県史』の証言録にも, 野田隊長が「早まって死ぬことはない. 住民は杉山に終結させておけ」と指示したことが出ています.

杉山とは三方山に囲まれた谷間のことで, どこから弾が飛んできても当たらない安全な所でした.

それが抑止力になったのでしょう, 慶留間島では少数の集団自決はあったけれども, 阿嘉島では集団自決はなく, 散発的に自決した人がいただけだったということです.

こう見てくると, 慶良間列島に駐屯する部隊の指揮官たちはいずれも住民に集団自決を命令したり示唆したりということは全くなかった.

また, 米軍の攻撃から住民を守ることはできなかったけれども, 少なくとも出来るだけ生き延びるようにと願っていたことが窺えます.

それだけに, 『鉄の暴風』をはじめ集団自決があったとするウソの罪は重い.

前回お話した座間味島の梅澤隊長の場合は生きている間に汚名を晴らすことができたけれど, 赤松隊長は黙して語らないまま病死された.

世間の誹謗中傷の渦に巻き込まれ, 娘さんまでがお父さんはそんなに酷い人だったのかと苦しみ自殺を図るという辛い出来事もあった.

そういうことを聞くにつけて, こんなウソをでっち上げた『鉄の暴風』の執筆者の罪は万死に価すると言わざるを得ない.

当然, 教科書からは「軍命令」によって集団自決が行われたという記述は即刻削除すべきです.



教科書は間違っている12



これで, 慶良間での集団自決が「軍命令」で行われたのでは全くないということはお分かり頂けたと思います.

とはいえ, なぜこんなに多数の人々が自決しなければならなかったのか, なぜこんな悲惨で痛ましい出来事が起こってしまったのかということになると, 戦前の教育に原因を求めようとする傾向が非常に強い.

実際, 沖縄でもそう思っている人が多いんです.

どうして皆が皆「戦前の教育の問題」として片づけてしまうのか理由はよく分かりません.

しかし, 少なくとも, 集団自決事件が沖縄戦の中でも最も悲惨な事例として, 戦後この方, いわゆる「反戦平和教育」の材料に使われてきたことは事実ですから, 私なりの考えをお話しておきたいと思います.

この問題を考えるに当たってまず我々が知っておかねばならないのは, 「戦時」というのは今の「平時」とは置かれた状況が全然違うということです.

とりわけ, 集団自決が起こった慶良間列島の場合は, 敵が数百メートル先, あるいは数十メートル先まで迫り, 生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた「敵前」の極限状態であり, 軍民ともにその切迫, 緊迫した状態に置かれていた.

しかし今は戦争といえば悲惨だ愚かだというイメージが先行し, そうした状況や心理状態なんて想像できないでしょう.

一方, そういう生きるか死ぬかの極限状態の中で, われわれの先人は捕虜になるよりも自決を選んだ.

皇国の民として潔く死ぬことが天皇への忠誠を全うする道だと信じていた.

沖縄県史』の証言録を読んでみても, 慶良間の女性達は, 敵前逃亡したり, 早々と降伏した将校に対して, 殺してやりたいくらい悔しくてたまらなかった, 日本兵が降伏したのを見て本当に悔しかったと述べている.


こうした意識の背景には「忠君愛国」「生きて虜囚の辱めを受けず」といった教育があったことは確かでしょう.

しかし, だからといって, 「忠君愛国の思想が悪かった」「鬼畜米英と教えたのがよくなかった」と一方的に断罪するのは短絡的な捉え方だと思う.

なぜなら, 程度の差や何を信ずるかの違いはあれ, どこの国でもそういう教育とか信ずるものを支えにしたりバネにしたりして発展を遂げたのであって, 日本の場合は「忠君愛国」という形をとったということに過ぎない.

忠君愛国の思想は, 戦後は負のイメージで捉えられているけれども, 実際は日本の近代化を推進する原動力になったと言っても過言ではない.

もし敵が攻めてきた時に「自分の命が一番大事だから俺は逃げる」という卑怯な国民ばかりだったら, 果たして明治以降の日本の発展はあったでしょうか.

今日の我々には理解し難いかもしれませんが, 当時は敵に負けるのが悔しかった時代であり, 敵前逃亡する奴は卑怯な奴として憎まれた時代であり, 負けて敵に殺されるぐらいなら潔く自決しようという時代であった.

それを理解しようとするところからしか歴史的な事件の真相は見えてこないのではないでしょうか. [教科書は間違っている13 以下,省略]

【出典:記載無し】
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とくたけは日本を正しい方向に導きます

徳澤健(とくざわたけし)31歳 A型 172cm 65kg デジタル技術検定 情報・制御各部門2級, 英検2級, 測量士補 予備自衛官 消防団

昭和49年2月8日 広島県呉市に生まれる.

明るく, 好奇心旺盛で, 日本の文化と歴史を愛し, 祖国日本に自信と誇りを持ち, 先人への感謝を忘れない性格です.

家族は現在妻と二人で, 子供がたくさん欲しいです.

好きな言葉は「意志あるところに道はある」で日本が世界で最も尊敬される国になるように意志をしっかり持ち頑張っていきます!!

丹羽経済塾 幹事 兼 広島支部*1

やまと委員会 会長 *2

祝日には必ず国旗を掲げます. 神棚には, 伊勢神宮, 靖國神社, 廣島護国神社のお神札をおまつりしています.

徳澤家の家訓は『教育勅語』十二の徳目です. 教育基本法も改正して, この素晴らしい徳目を盛り込みます.

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日本再生 ★★★ 桜魂 ★★★ blog http://nippon7777.exblog.jp/


via 思考錯誤掲示

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日本の植民地政策と非残虐性 http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/shokumintiseisaku.htm

≪我々は素晴らしい日本を守っていかなければならないでしょう≫を23回唱える/アレフ状態??

日本の植民地政策と非残虐性9

台湾の今日あるのは日本のお陰と考え, 島民は日本を怨むどころか感謝し, 台湾の歴史の中で日本統治時代が最も幸せな期間となつかしがっているのが実情です.

台湾は世界の中で最も親日的な唯一の国です.

大東亜戦争もアジア解放の聖戦と考え, 台湾人も日本人として志願して兵隊に入り, 勇敢に戦いました.

靖国神社には二万人もの英霊が日本人と同様にまつられている程です.

我々は素晴らしい日本を守っていかなければならないでしょう.

日本の植民地政策と非残虐性20

南京虐殺説が虚構である間接的な証明は, 蒋介石の戦後処理で明らかである.

シナ事変で日本軍が戦わされたのはチャイナ共産党ではなく, 蒋介石軍だ.

その蒋介石終戦後直ちに在支日本軍人, 軍属, 民間人二百十万人もの日本人を無傷で直ちに送り返してくれた.

賠償金五百億ドルも放棄し, 天皇制の維持と日本分割にも反対する, 極めて寛大な処置をとってくれた恩人だ.

もし南京虐殺が本当なら, 親分の蒋介石が日本人を只で帰すといっても, 被害を受けた民衆が承知せず, 在支日本人への略奪・殺人・暴行の大混乱があった筈である.

また, 多数の残留日本人孤児をあれほど大切に育ててくれた事実からして, チャイナの民衆が日本人に怨みをもっていたなどとは, どうしても想像できない.

日本軍が大陸で民衆を虐殺したり, 乱暴し, 迷惑をかけたなどの話は, 殆ど戦後誇大にデッチ上げ, 謝罪と賠償金をせしめようとするチャイナ人のタカリの習慣から生まれたものである.

我々は素晴らしい日本を守っていかなければならないでしょう.

日本の植民地政策と非残虐性21

明治以来, 日本軍は規律正しい統制のとれた模範の軍隊として, 世界的に定評があった.

軍人勅諭と戦陣訓の下, 厳粛な軍律があって, 占領地で略奪・強姦などありえない.

発見されれば軍法会議で重営倉入りである.

ところが外国の軍隊では白人もそうだが, シナの軍隊は馬賊と言われるように, 侵略先の町村を破壊し, 泥棒や強姦はやり放題で, これが唯一の給料であり, ボーナスだから, この時とばかりの悪事は当然である.

我々は素晴らしい日本を守っていかなければならないでしょう.


軍人勅諭(1882/04/01)と戦陣訓(1941/08/05)の役割を勘違いしてないかい*3


解説

軍人勅諭 http://www.tabiken.com/history/doc/F/F206R100.HTM

軍人勅諭の意図 http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj010913.html

全文

中野文庫 http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/cm15.htm

http://www.geocities.jp/kokuminbunka_3776/gunjintyokuyu.html


(再掲)
戦陣訓

日本文学電子図書館 http://www.j-texts.com/shiso/senjinkun.html http://www.j-texts.com/sheet/senjinkun.html

自由文庫 PDD archive http://archive.hp.infoseek.co.jp/senjinkun.html

私立PDD図書館 http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/rules/etc/senjinkun.txt

JACAR(アジア歴史資料センタ) http://www.jacar.go.jp/

単行書・軍人ヘ勅諭(Ref.A04017133200)
戦陣訓に関する件 通牒(Ref.C01005234000) 「生きて虜囚の辱を受けず」は 25枚目

*1:カネがなければ刷りなさい 丹羽春喜事務所 FAX 0797−22−2503 http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/

*2:地域通貨『やまと』 http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/yamato/

*3:それ以前に…とほほ…『明治以来』,『軍人勅諭戦陣訓の下,厳粛な軍律があって』って時空を超越してませんか