飯島喜美さんの思い出


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飯島喜美さんの思い出


飯島喜美さんとは上野署で出会った. 彼女は5月21日に検挙されたので, 他の警察に約1ヶ月留置されたのち上野署に来た. 彼女のことについて私は『アカハタ』[*1]に,山本正美は『激動の時代に生きて』に,その他, 鹿野政直早大教授が『婦人公論』に,山岸一章氏が『不屈の青春』にそれぞれ書いている. 尚, 鹿野教授から予審決定書の写しを私はもらったが, 更に正確を期するため, 『日本共産主義青年運動史』の著者名古屋市立女子短大斉藤勇教授の御協力を得て, 飯島喜美さんのオルグ先であった浜松市の共産青年同盟員林田氏を彼女の甥と上田市に訪ねたり, 当時共産青年同盟書記長であった伊藤律氏, 当時一緒に活動されていた山代巴さん, 大竹一灯子さん(旧姓久津見)ら多くの人びとの御協力を得たことに感謝の意を表しておきたい


飯島喜美さんは,1911年12月現在の千葉県旭市に生まれ, 尋常科6年卒業と同時に女中奉公に行っている. その時は数え年13歳である. その後1927年2月, 15歳の時東京モスリン株式会社亀戸工場の女工になった. 彼女は当時の少女たちのあこがれであった「白衣の天使(看護婦)」になりたかったそうだが, 父親が看護婦を嫌って, 女工になることを進めたのでと, 彼女自身話していた


東京モスリン亀戸工場では, 女工さんの賃金のうち4割が社内預金,6割が手渡しされていたものを, 飯島さんの入社した年の夏, 何の前触れもなく, 一方的に6割を社内預金,手渡しを4割にした. その時女工さんの不満が爆発し, 伊藤憲一氏(敗戦後共産党の代議士, 当時同工場の労働者)らが組織していた前衛青年隊が中心になって「手渡金減割反対」の闘争を展開し, 会社に撤回させた. 入社して間もない飯島さんは集会に参加したり積極的に行動していたが, 飯島さんは生活の中から社会の矛盾,資本のからくりを身を以て知り, その後学習会や労働組合活動に参加し, 1930年5月モスクワで開催されたプロフィンテルン第5回大会に代表として参加するまでに成長した. そしてプロフィンテルン大会終了後モスクワに残ってクートベに入学し, マルクス・レーニン主義の勉強をした. 私が上野署で会った時, 飯島さんは口数が少なく, 沈みがちで淋しそうな感じを受けた. 自分の検挙された場所などについても何も話さなかったが, ただ一言「彼に売られたかと思った」といった. その一言以外は何もいわなかったが, 私にはその一言がひどく気になったが非合法活動のため聞くことをやめた


飯島さんは私が中央責任者の秘書をしていたことを知ってからは, 大きな目を輝かせ別人のように熱をこめて話してくれた. それによるとクートベでの教師が西村氏[山本正美=アキ]であったこと. そこでの生活, 彼の人柄等を話し「アレキセーェフ」(西村氏のモスクワでの名)を全面的に信頼し, 彼ならば混乱に陥っている日本共産党(全国的検挙に続く労働者派の問題等)を再建してくれる. 労働者派に関して私の受けた譴責処分は当然と思うといった


飯島さんの話によれば, 時期ならびに個人名は言わなかったが中央委員の一人から「みんなが検挙された場合はコミンテルンと連絡をとり, 党を再建するように」と言われていたという. 彼女の素朴な労働者的感覚から, 共産党中央部の構成はインテリではなく, しっかりした労働者出身でなければという善意からであろうが, 全党の総力を結集する方向ではなく, 関東地方委員の藤原こと内海秋男氏ほか二名とともに「労働者派」というものを組織し, 中央機関紙「赤旗」とは別に「赤旗」号外というものを発行した[*]. そこへ彼女のクートベでの教師, あのアレキセーェフが帰国したのであった. ソ連帰りの人間に対し, 誰一人文句をいわない中で, 彼女だけが「私たちが党を守ることが必要なのではなく, 党がわれわれを守らなければならないのだ」と食ってかかったそうだ


鹿野早大教授の『婦人公論』1972年2月号「埋れた婦人運動家(2)飯島喜美」に作家山代巴さんの談として「譴責処分後工場に入ってやり直した」と書かれてあるが, 工場には入らなかったようだ. というのは,「その日の生活にも困り果てて川崎の海岸に行って貝を拾って飢えを凌いだ」とか,「東京に出かけるにも靴下がなくて出かけられなかった」とか,「淋しくてたまらなくなった時, 元の工場の門の前に行くと, 外出した人の誰かには会う. 『喜美ちゃん元気だったの』と寄ってきてくれた. これが私の支えになった. 脱落しないで持ちこたえられたのは, 私が工場労働者で, こうした友人があったからだ」としみじみ語っていた. こうした話の中から, 連絡がとれなかった共産党中央の婦人部長の予定者が飯島さんであったことがわかった. 共産主義青年同盟書記長であった伊藤律氏によると, 飯島さんは一時伊藤律氏の周囲で預り, のち三船が連れて行った(伊藤氏からの私信)という. 工場で働くつもりでいたことは事実であろう. というのは, 指に糸紬のたこをつくっていたことを浜松の共青メンバーであった林田氏から直接聞いた. 飯島さんは共産主義青年同盟のオルグとして浜松に行き, 浜松では大変よいオルグが来てくれたと喜び, ある同盟員は自分の娘の名を「喜美」と名づけた人さえあったが, また一方では組織が一網打尽にやられ, 警察に何もかも握られていたことから, 飯島さんに不信感をいだいた人もあった. 飯島さんが私にいった「彼に売られたかも……」が重要性をもっている


飯島さんと党中央との連絡を邪魔した者が誰かは明らかでないが, 彼女は, 山本某(本名今井藤一郎)か三船か, またはその二人の下で共青のオルグをし, 売られ, 検挙されただけでなく, 彼女がオルグした浜松の共青組織も一網打尽にやられたのである. その三船は1933年4月, 共青委員長から党の東京市委員長に転じた. 飯島さんの予審決定書には「静岡県の同志を上京させ同盟の山本某と会合させ静岡県の活動方針を協議せしめた」とある. 伊藤律氏の私への手紙によると「私の上部は山本こと今井藤一郎と三船で, 今井と連絡の時飯島を部署が決まるまで預かってくれといわれ, その後部署が決まったから, 三船に引き渡すからといって飯島を連れて帰った」とある. また伊藤氏自身が今井,三船の二人に売られたとその間の経過を詳細に書いてよこした. 2月20日築地署で虐殺された小林多喜二氏の検挙も, 来るはずの三船の代わりに築地署の特高刑事たちが張り込んでいた(しまねきよし『日本共産党スパイ史』)とあり, なお同書によれば共産党では松村こと飯塚□□, 共青では三船留吉をスパイと気付かず, 長期間泳がせていたとある[*2]



市ヶ谷刑務所から栃木刑務所へ


私は[1933年]5月4日に検挙され, 9月の初め頃であったかと記憶するが, 飯島さん,風早嘉子さん等と別れ, 再び市ヶ谷刑務所に運ばれた. その時, 特高刑事から獄中の共産党幹部らのうち佐野學, 鍋山貞親氏に続き三田村四郎,高橋貞樹氏らの転向声明により一部の長期拘禁者に動揺が起きていることを知らされた. 私は知らなかったが赤色救援会の活動家も根こそぎ逮捕され, さらに労農弁護士団の弁護士も多数検挙されていた. 刑務所内の雰囲気もすっかり変わり, 治安維持法の被告は急増しているはずなのに, いくら合図をしても何の反応もない. 何らかの反応を期待して11月7日に「ロシア革命万歳!!日本共産党万歳!!」とありったけの声をふりしぼって叫んだ. それでも同志の反応は何もない代わりに, 敵の反応は凄かった. 運動場にある四方を厚い板で囲んだ, 薄暗い牢獄の中の牢屋に入れられた. 革の胸搾衣を被せられて, 食事をするのも器のそばににじりよって犬喰いをするほかない重罰が一週間加えられた


突然姉が面会に来て「弁護士さんも検挙されて誰もいない. 控訴を取り下げて下獄したらどうだ. 皇太子誕生の恩典があるという話だ」といった. 弁護士がいなければいなくてもよい. これも一つの闘いだと思った. ところが, 弁護士なしには公判は開かれないから私があなたの弁護をしますといって一人の弁護士が面会に来た. その人は敗戦後の片山内閣の司法大臣鈴木義男弁護士であった. 何一つ打合せもなく, 公判はまったく形だけのものであった. 判決は一審通り3年6カ月, 未決通算200日も変わらなかった


1934年6月6日, 既決囚だけを収容する栃木刑務所へ送監された. ここは朴烈事件の金子文子が自殺したところである. ここでは独居房で熨斗(のし)折の作業で, 一日いくつというのるまが課せられた. 1935年初秋の頃であったと記憶するが, その日は週二回の入浴日で, 大きな湯船の中で湯気と外からの強い太陽の光とでうっとりとしていたところへ一人の新人が入ってきた. 見るとそれは飯島喜美さんであった. 2年前に上野署で別れた時とはうって変って痩せ細り, すぐには声が出なかった. 「元気なの」と聞いたが, それには答えず「私, 案外安かったのよ」に続けて「3年よ」といったのであろう. だが, 私は3年と聞いたのは忘れていた. のちに1980年5月, 飯島さんの刑期を聞きに栃木刑務所まで行ったが, 家族以外には教えられないと断られた. 飯島さんは, 私の夫, 山本[正美]のモスクワでの教え子でもあり, 83年の6月, お墓参りにと二人で旭市に行き, 菩提寺で遺族の住所を教えられ. 末の弟さんに手紙を出した. それがきっかけで甥になる人が資料を持って私を訪ねてくれた. その資料の中に, 私が1937年出獄直後, 父親の飯島倉吉さんに「3年だといっておられたから……」というはがきを出していたのであった. 彼女の監房は廊下を挟んで反対側の一番奥で, 私のはちょうど真ん中くらいであったから一寸離れていた. そんなわけで, 彼女の姿は便器を出す時に垣間見るくらいであった



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*1:『アカハタ』1958年7月2日(4面) 山本菊代「ぱっちりした目が 飯島喜美さんのこと」id:dempax:19580702

*2:飯島喜美検挙は1933/5/21…内務省警保局『社会運動の状況』昭和8年版附録「日本共産黨中央部檢擧者一覧表」 三船留吉除名追放の発表は 赤旗 No.143-2面(1933/6/21) 挑發者香川の除名に關する決定⇒id:dempax:19330621