喜美さんの死

綿入れの着物を着てもガタガタする寒い12月に入ってから飯島さんの部屋の便器を雑役が出し入れするようになった. また牛乳が支給されるようになった. 飯島さんと一緒にプロフィンテルン大会に出席した風間静子さん(旧姓児玉)は飯島さんと同じ側で中一房おいた監房にいた


あまりにも変わり果て病みほうけた喜美さんの姿に驚き, 毎夜就寝後(彼女は工場で作業し, 部屋にいるのは夜だけであった)枕を外して敷布団に耳を押しあてて飯島さんの寝返りの気配や, 咳により生きていることを確かめていた. ある日の払暁, 異様の気配を感じ目が覚め, いつものように枕を外して敷布団に耳を押しつけて, 飯島の部屋の物音を聞こうとしたが聞こえてこない. 死の世界のようだ. 明け方の4時頃彼女は死んだ. 見る人もなしに私(児玉)以外に誰も知らない. 私は寝床からそっと這い出して紙石盤に忘れまじき次の一行を書きとめた.『昭和10年(1935年) 12月18日午前4時栃木刑務所支所1舎30房に於て肺結核にて死す. 飯島喜美 行年25歳』

と風間さんは, 飯島さんの思い出を『運動史研究(5)』にこう書いている. また私と同じ側だがもう少し近い房にいた森田しげのさんは「飯島のロシア語のうわ言をきいた. 私がロシア語を知っていたら意味がわかっただろうに」と山岸一章氏に語っている


前記二人より離れた監房にいた私は愚かにも, 牛乳の支給が迫りくる死への刑務所の餞別とは露知らず, 食欲が少し出たのかくらいに思い喜んでいた. ところがある日の午後, 私の監房の中まで線香の匂いがしてきた. 釘を打ち込む音もしてきた. 起床前の明け方, いつもとちがった気配があった. 「はて, あれは」とはっとした. あわてて大きな声で看守を呼んだ. とにかく飯島さんに最後の別れをさせてくれと要求した. 看守ではらちがあかない. 看守部長に面接し, 告別を要求した. だが彼女らは(女監であるため職員はほとんど女性)冷酷にも「お棺の蓋をしてしまった」と拒否した「何故執行停止にしなかったのか」の私の質問に対して「親元に連絡したが家庭の事情で引き取りに行けないからよろしく頼むという返事があった」といった. これには深い事情があるのだろうと思い, 娘の危篤にの報せにも駆けつけられない親の気持ちを思い胸がしめつけられる思いで, 同志飯島喜美さんを憤りの涙で見送るほかなかった. 遺体は刑務所側で荼毘に付してお骨にし, 親元に届けられたものとばかり思っていた. ところが喜美さんの甥木下豊氏によると刑務所は危篤になると千葉医学専門学校(現国立千葉大学)と連絡をとり, 研究材料にすることの承諾を親からとって, 遺体をそのまま千葉医専に送って, 解剖されたのであった


飯島喜美さんは25年間の生涯の中で一番生き甲斐を感じたのはモスクワ滞在の一年間だったのではないかと思う. 彼女がモスクワでの生活を語る時だけは眼が輝いていた


共産党機関誌[理論政治誌]『前衛』1958年3月号で伊藤憲一氏は, 飯島さんの在ソ中, 飯島さんがやくざと結婚していたように書いているが, その事実は全くなく, それは飯島さんだけでなく, 彼女を受け入れて勉強させたソビエトに対しても失礼だろう. それと山岸一章氏は『不屈の青春』で彼女の遺品の真鍮製のコンパクトの外側に「」と刻まれていた, それを獄中で死と闘いながら刻んだかのように書いているが, 今の刑務所ならいざ知らず, 肛門の中まで調べる軍事警察的天皇制下の刑務所はいかに逆立ちしても化粧道具はもちろん, 金属製の物に字が刻めるようなものが持てるほど生易しいものではなかったことを一言つけくわえておく


私の栃木刑務所での服役生活はとりたてることはなく, 健康でさえあれば3年後には自由になれる. 健康のためにも一日30分間の運動は少々雨が降っても実行した. 藁草履でぺちゃぺちゃ歩いた. おかげで水虫になり, 生涯背負い込むことになる. 水虫は栃木刑務所の形見で, 今でも私の心を引き締めてくれる



[以下略]