【1】


私が被爆後の広島を最初に見たのは,1945年11月だった. 何日だったか日付は覚えていないが,向洋(むかいなだ)の東洋工業疎開していた広島県庁に事務所を持つGHQ(駐留軍総司令部)の広島支部から,突然出頭命令書が来た


出頭の日もはっきり記憶にないが,午前10時に受付に来いという. 山陽線福山駅から20キロの奥地にある私の生家から,広島駅一つ手前の向洋へ朝の10時に着くには,そのころは前の晩に広島駅に着いていなければ間に合わないので,私は前の晩に広島駅へ着いた


駅前は今とはまるで違う. 焼野原を前にした広場で,泊まる家がないらしいリュックを背負った旅人ふうの人や,汚れた浮浪者ふうの人や孤児とおぼしい子どもたちが焚火を囲んで輪になっていた. 私もその中へ入って背中を焚火であぶりながら焼野原を眺めた


遠くに一筋の白い煙が空の高いところまでまっ直ぐに昇っている. 浮浪者ふうの人が復員者らしい人に話していた


「あれは福島町の槍倒しの楠の芯が燃えているんだよ」


それは大きな楠の木で「昔は枝の下を通る参勤交代の殿様行列が槍を横にして通ったから,槍倒しの楠とうたわれたんだが、原爆が落とされたとき,ピカッと光った光の先が,木の芯に入って,外は焼けずにいるのに,ああして木の芯から煙が出続けているんだ」


復員者は戦前の広島を知っているらしい


「国泰寺のところには直径が6尺(約2メートル)はじゅうぶんにあると思える樹齢1000年を超えるといわれる大きな楠が3本あったが,あれはどうなったんか」


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