【2】 補償要求のあとにつぐもの

「きのこ会」の誕生は,新書『この世界の片隅で』を足台にしている. この足台はどうしてつくられたか,私はいまそのことを思う


『この世界の片隅で』は「広島研究の会」の成果である. 私の「広島研究の会」での役割は,自発的な被爆者の組織を最初につくった,故川出健君の遺志やその方法を,もう一度確かめ,できることなら受け継ぐ組織を残したいということにあった. 川出健や私が共通して持っていた方法を要約すれば,被爆者といえどもその平和要求の一番の砦は,自己の内面の革命で,このためには互いが実践し討論し,新しい自分,新しい相手を発見しつつ,同志的に連帯していくことだった. これは畠中さんの「我々が幸せになるためには,そうしたあらゆる宿命から生じる難を一つ一つ打開し,一歩一歩幸福へ前進していく以外にない. そのためには先ず,自分自身の革命からおこなっていかなければならない」と共通の考え方だと思う. ところがこれは抽象の世界での共通で,実践に移した場合には,この共通の言葉を,ある者は祈ればよいというようにも受け取り,ある者は古い日本人のままの努力を重ねて行き,ある者は古い日本人のままの努力に正面からぶつかり,あの侵略戦争の反省が行動の基礎であるというように受け取る. 実践すれば必ずこの対立が起こってくる. そこから分裂ということも起きてくる. 分裂せずに互いの内面の革命を助け合い,連帯を保って行くということは,大変むずかしいことなのだ.「きのこ会」がこの困難にかつて一度もぶつからなかったということは,互いの内面革命の面は,実践の上での連帯へは向かわず,抽象のところに止めて,今日までの連帯を保って来た証拠といえるのではないだろうか. これが一万五千円を引き出したあとの,気の抜けた沈滞,会としての活動にピリオドが打たれたかと思えるほどの状態の一番の原因だろうと私は思う


畠中さんが「片隅の記録」で書かれている「我々の運動は八月が近づくと夏の夜空に彩られる花火のように,パッと燃えてはスーッと消えて行く一時的なはかないものであってはいけない」という,運動への願望は,一人畠中さんだけのものではなく,「きのこ会」と「きのこ会」にかかわる全員のものであったろうと私は思う. そしてその願望は,互いの日々の内部革命の積み重ねにかかっている. 認定と補償にまずまずの実りを得たいまは,遠慮の殻を破るのが第一だと思う. 遠慮の殻を破った会報は,全員と会にかかわる全員の,一人一人の内部変革の報告集であっていいのではなかろうか. 時々カンパを集めて送って下さった人も,会報を買って読んで下さった人も,その人々の内面変革の実践報告を送って,互いの心に波紋をひろげて下さっていいのではなかろうか. 私は会報の事務局報告にある「いま,日本全国で戦われている平和のための戦いの底辺として,それらと連帯して戦うということは,観念的にはわかるが,なかなかそこに辿り着く途はけわしいように思う. むしろ,その過程を大切にしていくような活動をしていきたいものである」に対してそう思う


そこで長岡さんから何か書くようにすすめられたのを機会に,私の内部変革の報告を送ることにした. ものには順序があるというので何年も前のことにまで遡っていたら大変だから,書くことを求められた6月の一月をとって報告することにした