第1日目

「広島・東京1000キロ平和大行進」[*1]の西本あつしさんの一行を湯河原町吉浜にお迎えしたのは8月4日午前9時半頃だつた 砂川闘争で「弁慶さん」などと渾名を付けられた西本さん[*2]のたくましい姿は 1年前と少しも変わらない 岡山から参加の一行中ただひとりの女性である増本紫雲さんも その他 大阪,奈良,三重,愛知,岐阜,静岡などから参加された人々の顔も「よくもまあこんなに黒くなつたものだ」と驚くくらいにたくましく元気だ


鈴木小田原市長 八□湯河原町長 広田[重道]県原水協事務局長その他のあいさつがあつた後「平和行進」一行を代表して西本さんがあいさつを述べる


「6月20日広島を出発以来私たちは今日まで900キロ余りの道を歩き続けてきました でも私たちはちつとも疲れておりません 私が広島を立つとき「千羽鶴」で有名な佐々木禎子さんのお母さんが1羽の折鶴を胸につけてくれました その折鶴には「広島で亡くなつたお友達も行進に参加します 平和をきずくために」と広島の子供のたどたどしい文字で書かれてありました

この行進にはもうすでに60万人以上の皆さんが色々な方法で参加してくれました 東京へ着くまでには恐らく100万を超えると思います

田んぼのなかで草取る手を休めて激励してくれたお百姓さん 眼に一杯の涙をたたえながら一生懸命になつて湯茶やその他の接待をしてくれた沢山のお母さん方 道端で合掌して送つて下さつたお年寄り 無心に小旗を振つて励ましてくれた小さな子供 その他沢山の人々に守られて今日まで歩き続けてきた私達は これらの方々の「原水爆禁止」の悲願を抱き東京へ参ります」


と述べれば狭いレストハウスの庭に拍手と歓声が湧き上る 東電の桜井光夫さんの総指揮で神奈川県における「平和行進」は始まつた どこの学校だろう小学生の一団が道の両側に並び「原爆許すまじ」を唄いながら盛んな拍手を送つてくれる


どうも歩調がおかしい 良く考えてみたら 日本山妙法寺のお坊さんの団扇太鼓の音に皆の足が合つてしまうのだ「なあんだ」と皆顔を見合わせて大笑いしてしまつた


何というところだつたろうか 子供を抱いた母親が溢れる涙を拭おうともせず手を振つてわれわれを見送つてくれた「有難うございます」と叫んでいたその姿「ああこの人も原爆被害者の一人なのだろうか」と思つたら流石の私も頬に流れる涙を止めるすべを知らなかつた 真鶴・江の島・石橋と地元婦人会の接待を受け 行き違う観光バスから送られる歓呼の声を聴きながら小田原へ到着した

*1:西本敦師の掲げるブラカードは「平和行進」『原水爆禁止運動資料集6[1959年]』他 朝日新聞・アカハタ 1959年の記事によれば【1959年の平和行進は原水協発表『国民平和大行進』を正式名称】としているが 1958年に「平和大行進」の呼称は珍しい 私見では関連記事に見つからない

*2:亀井文夫「流血の記録 砂川」採録 抜粋版 西本敦師の発言 http://d.hatena.ne.jp/dempax/19561013参照