ぱっちりした目が 飯島喜美さんのこと … 山本菊代

ぱっちりした目が 飯島喜美さんのこと

    山本菊代



『前衛』(1958年)3月号伊藤憲一氏の「無名戦士の墓に」を読み飯島さんのことを記憶をたどりながら書きます


飯島さんは私が昭和8年[1933年]5月に検挙され, 大井署から上野署にたらい回しされていたとき, 私より後から入ってきたのでした. どこで. どういうところから検挙されるにいたったかについては, 聞いた記憶がありませんが,ただ「彼に売られたかと思った」ということをいっていました. 伊藤同志が検挙されたときのことに一寸ふれていたが, 誤伝ではないかというような気もします. とにかく, おとなしい落ちついた人であったが, どことなし淋しい感じを受けました. だが, たまたまソビエトで山本[山本正美=山本菊代の連合い]を知っているといって, ソビエト時代の話をしてくれましたが(飯島は1930年にプロフィンテルン第5回大会代表として出席, 1931年帰国した)[「(…)」は原文], そういうときにはぱっちりした目がいきいきと輝きだすのでした


また, いわゆる「赤旗事件」(熱海事件後, 共産党中央の再建にあたったのはスパイ大原, 小幡たちで飯島と内海秋夫,山下平次の3人がかれらを信用出来ず独自に『赤旗』を再刊した) 伊藤同志は 飯島さんが除名されたように書いているが, それは誤りで昭和8年[1933年]1月20日, 中央委員会の名で内海の除名と3名の譴責を決定発表し, のちに飯島・山下の両名は譴責を解除し, 飯島君は婦人部長に任命することに決定したと山本[正美]はいっています. 処分ならびに解除(『赤旗』復刻版第3巻[三一書房,1958年]を見ますと1933年1月20日付第114号および3月20日第127号はそれを発表しています)については, 処分は当然で確信をもって, 中央指導部を信頼して処分をうけられたといい, そのとき, いちばんに会いたくなったのは職場の友だちだった, 京モス工場の門前で友だちの出てくるのを待ち, 会ったときの話をし, 私が労働者だったから堪えられたのだろう. もしそうでなかったら没落したかも知れないともいっていました. 天皇制警察のものすごい弾圧下にあった非合法時代に党から処分をうけた精神的打撃と生活の困難は相当のものだったでしょう. 決められた部署[党中央婦人部長]につかないうちに検挙されたことは, 飯島にとってはなんといっても不幸なことで, 淋しい感じをうけたのもそうしたことのためであったのではないでしょうか


上野署では 東京女子大の関口さん[*1], 女子経済専門の大山つね江さん[*2](後に岡部隆司氏[*3]と結婚, 岡部氏は1939年ごろ検挙後発病し, 埼玉県の実家の近くで一人淋しく死亡されました. 『解放のいしずえ』には夫君はでていますがつね江さんはでていません. 解放運動の尊い犠牲者です. 「無名戦士の墓」に納めてあげたいと思います) ,名前は忘れましたが 天草出身の紡績女工さん, 風早夫人の嘉子さん[*4]などといっしょでした. みんな元気で, ことに風早夫人が検挙されたとき酷い拷問をされ, 夜おそく死人のようになって監房へかつぎこまれたときや, 特高が調べだといって呼び出しにきたとき, まだ体がなおっていないから駄目だとみんなで風早夫人をまもったのでした,


それから2年ほど後のある日 栃木刑務所の入浴場で後から入浴にきた新入生といっしょになりました. それが飯島さんだったのです. 飯島さんが「私案外安かったのよ」といい「体に気をつけて」など言葉をかわしたのが最後になろうとは. その後も作業をしていたので病気とは気がつかずにいたのですが, 便器交換を雑役さんがしだしたのできいたら, 病気であること・やっと牛乳が入るようになったことを教えてぐれました. ある日かんかんの音に驚き, 部長を呼び確かめたら亡くなったのだという. 告別を要求したが, 家から行けないから骨を送ってくれと返電があったのでお棺の釘を打ち付けたと拒否し, 告別することさえ許可しなかった


生死を誓った党員が何人かいながら, 目の前にいる同志の病気も知らず, 見舞の言葉ひとつかけてもらえず, だれにもみとられることなく, 淋しく息を引きとった飯島さんを思うと心苦しくなるのです. せめて生前親しかった人や私たちのように獄中で一堂に会して, 歳そこそこの若さで国際舞台で活動し, 党史にも労働運動史にも足跡をのこした飯島喜美さんを語り合うことを提案します



【出典】『アカハタ』No.2625(1958/7/2 4面)




*1:関口さん: 鈴木祐子編『日本女性運動資料集成 第3巻 政治・思想III』治安維持法違反女性起訴者調べ「昭和8年 東京の部 45名」p.473では飯島喜美(23)隣に「関口美代子(26)東京女大中退 党中央機関紙資料配布係, 同盟東京女大細胞大衆団体 処分12.2」とある

*2:大山津禰江と岡部隆司については山岸一章「産業労働の岡部隆司 14歳の少年給仕から」『不屈の青春』p.93 - p.113を参照

*3:岡部隆司: おかべたかし…1911.6.4-1942.7.31 広島県神石郡豊松村豊松(現豊松町)生れ 農家の三男に生まれ1925年(T14)産業労働調査所の給事となり夜間中学に通学しつつ野坂参三,野呂栄太郎,岩田義道らが検挙されていく期間も持続して産労に勤務, 産労の生き字引的存在となり29年頃には『産業労働時報』の編集に参加. 海外との秘密連絡も担当し産労の中心的な活動家となった. 30年3月眼病手術のため仮出獄した野坂参三(31年1月共産党中央委員に選出された)が中央委員会の決定でコミンテルン日本代表として妻野坂龍とともにソ連に赴いた時, 共産党中央との連絡任務を担当した. 31年1月中央が再建されると煽動宣伝部農民部を担当した岩田義道に協力『第二無産者新聞』の編集責任者となったが31年11月検挙された(岩田はこの翌32年10月30日, スパイMこと松村昇の策謀により東京神田の街頭で逮捕され11月3日に拷問により虐殺)岡部は34年5月まで広島刑務所に投獄される. 35年夏上京して木材通信社に就職. 36年7月には小林陽之助が秘密裡に帰国すると連絡をつけコミンテルンの統一戦線方針の普及に尽力した. また岡部は長谷川浩とともに東京Gr.を結成, 春日正一, 山代吉宗らの京浜Gr.とともに党再建につとめ, 東大の学生とも接触, 東大では木村三郎が中央となって38年9月「イニシァティヴ・コミッティ」を結成,経済学部を基礎に活発に活動している. だが40年6月には「イニシアティヴ・コミッティ」及びその周辺の学生59名も検挙され, 党再建Gr.にも検挙の手が伸びる. 岡部は40年7月, 東上線川越市駅前で検挙され42年7月に巣鴨刑務所で獄死した. なお, 彼の妻岡部津禰江(旧姓大山)は彼が検挙された時, 重症の肺結核で妊娠もしており, 42年3月12日29歳で病死している(笠井忠)【参考文献】山岸一章『不屈の青春-ある共産党員の記録』新日本出版社 1969年/高桑末秀『日本学生社会運動史』1955年…『近代日本社会運動史人物大辞典(1)あ〜お』日外アソシエーツ,1997/01/20 p.716

*4:風早嘉子: 風早八十二氏の連れ合い…山本菊代『たたかいに生きて 山本菊代自伝』社会評論社,1992/7/20 参照