『千葉県の歴史』から[*4]

『千葉県の歴史/県史39/別編/年表』より関連事項を抜粋してみる[*1][小松七郎『基地の海/九十九里米軍基地闘争の記録』千葉県平和委員会,1976の記述により補足, 補足部分は 青い太字 で示し[小松p.xx]の形で出典を明記する]


【1945年】


8/30 米軍が富津岬(富津市)・館山海岸(館山市)に上陸


8/31 米軍が館山海軍航空基地(館山市)に上陸


8/31 政府は館山終戦連絡委員会を館山市内に設置する


9/1 米軍が木更津基地を接収


10/3 米軍112騎兵連隊が千葉市へ移駐, 県庁2階を本拠地とする


11/20 千葉市に移駐した騎兵連隊軍制参謀課を第82軍政中隊と改称


11/20 成田市日本共産党第1回県党会議



【1946年】


7/1 第82軍政中隊を解体千葉軍政部が発足する



【1948年】


3/20 日本共産党機関紙『千葉民報』創刊[*2]


4/29 豊海町(九十九里)の一部が米第8軍により高射砲演習場(「キャンプ・カタカイ」, 1952/7/26〜「片貝高射砲射撃演習場」, 1957/4〜「豊海高射砲演習場」)として接収される[*3]


9/16-17 アイオン台風で銚子地域を中心に被害(県内の死者22人,住宅全壊1521戸,半壊4471戸)



【1949年】


7/1 米軍千葉軍政部を千葉民事部に改称


8月末…日本共産党山武地区委員会(山本喜三郎委員長)は共産党大演説会(入場料10円)を開く. 講演は砂間一良中央委員(衆議院議員, 水産委員). 500名の参加者 米軍の実弾射撃に対する補償の要求もさることながら町民のもっとも強い関心事は町役場や食糧公団の不正問題であり, それを摘発してくれることを求める声であった[小松p.13]


食糧公団不正(配給所主任が町民には雑穀を配給し米はいわしあぐり船の網元または地元のぼす親族だけに横流ししぼろ儲けをしていた)を知った片貝細胞は隣村の鳴浜村細胞の協力を得て, 消費者大会開催をめざし町内6ヶ所での部落懇談会と政治宣伝(町内4ヶ所の「かべ新聞」と細胞機関紙『くろしお』発行)を行う[小松p.14]



10/26 片貝駅前広場で食糧公団不正摘発消費者町民大会〜約千人の町民が参加し実質上の町民大会となる. 公団や町当局の代表は答弁できず立往生. 配給所の主任は即時追放になった[小松p.15]これを契機に実弾演習被害の国家賠償要求運動が展開される



【1950年】


1月…日本共産党千葉県委員会は, 第18回拡大中央委員会総会(1/18-19)決議実践のため,「米軍の日本からの早急な撤退」を求め, 2月21日の国際反植民地デーを闘うことを全県党に指令 [小松p.17]


2/21 反植民地闘争デーで九十九里の実弾射撃中止と補償・米軍撤退を要求した9名が逮捕される


3月はじめ…千葉県国際婦人デー準備会が現地調査. 「平和を愛する祖国日本の皆さんに訴える」に纏めた[小松p.12]


4/10 米軍軍事裁判で9名を起訴 マッカーサー元帥は奥野邦比古,石内茂吉,小松,野口宗雄,上野富治,八幡政登の6名を「占領目的阻害行為」で軍事法廷に告発, 山辺,宮崎弘夫,森山忠蔵の3名を追加告発[小松p.23]. 片貝駅前の掲示板に「出発に当って」と題する九十九里基地闘争被告団声明を貼り出す



4/27 公判開始. 弁護団は布施辰治(団長), 岡林辰雄, 為成養之助, 中村平三. 奥野,石内,野口,山辺,森山の5名は即決無罪. 5/5終結. [小松p.29]


5/5 4人[小松,宮崎,上野,八幡][小松p.32]に重労働1年の判決. 被告団は声明「愛国者諸君に訴える」を発表【『アカハタ』5/7掲載】[小松p.32]



7/16 県は共産党地方組織の機関紙『君津タイムス』『新タテヤマ』等10紙を発行停止処分とする


8/3 県内でレッドパージが始まる(『県史33』)


10/28 京成電鉄労働組合員のレッドパージ問題をめぐり警官隊と支援団体の乱闘事件発生(津田沼事件)

*1:1928年(大正12年)以降は見開き2頁を1年に当て「県内のおもな出来事(政治・経済)」「(社会・文化その他)」「日本と世界」に分けて記述している

*2:『県労働運動史』

*3:『県議会史』