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『評論』1948/1月号の羽仁五郎君の「哲学と死」にたいして,わたしは後出の,一文を『東京大学新聞』に寄せた. 終戦後の羽仁君は啓蒙家として人もゆるし,みずからも任じていると思われる. わたしもそれをかれにゆるしてきた一人である. そのためわたしは昨年まで彼のために,マルクス主義史家としての一家の立場をゆるしてきたのである(「絶対主義の史的展開」『中央公論』1947/4月号,『国土』創刊号,著作集4巻『絶対主義論』所収)


だが今年は去年でなく,況んや一昨年ではない. かれの相変わらずの仕方における「啓蒙」は,今日となっては,かれが口ぐせの「歴史的見とおし」を,かれが愛する「はたらく人民」の眼底に,ひらく働きを閉止したと思われる. よってわたしは今後,「一家」のマルクス主義者としてのかれにたいする従前の儀礼を,よろこんで破棄しようと思う. 左文がわたし一個の個人的感懐に出ているものか,ないしはかれによって啓蒙されつついつしか追い越して成長したかれの「はたらく人民」の疑惑に根差しているものか,ゆかりの本誌に問うのがちかみちであろう


「メーリンクならソクラテスを批判する権利がある. おまえたちはメーリンクではないのだから,三木清を批判してはいけない」これが羽仁五郎『哲学と死--三木清記念』と題する一文(『評論』1月号)の論旨である. 新憲法下の参議院はおそろしく圧制的な議員を一人もったものだ


歴史家=マルクス主義者にとって大切な実践の一つ--それによって彼が歴史家であって単なる参議院議員でないとしうるような実践は,正しい史述をすることである. 政治は今日と未来の歴史をつくる仕事であり,史学は過去に向かっての政治にほかならぬ. 彼にむけられた史学もしくは哲学の方法上の批判に対しては,哲学もしくは史学の筆をとって彼は答えるべきである


1948年の新年号の雑誌で,1948年[ママ]を回顧するかわりに三年忌もすんだ三木清を記念することは彼の勝手であるが,記念にことよせて,三木を観念論者だと批判した二人のついでに三人の--というのも,山田坂仁氏はぼくと同じく三木批判を行ったが,林基氏は羽仁を堂々と批判したけれども三木について語ったことはない--そのじつこの三年間に三木ではなくほかならぬ羽仁自身を批判している三人のマルクス学徒を摘発して腹いせとする卑劣な挑発者の態度は,断じてマルクス学とも共産主義とも無縁であるにちがいない. もっとも彼はかつて一度も自らを共産党員だと声明したことがないように,過去20年間において自らをマルクス主義史家として証明したことも実際にはなかったのであるが


かれがこの20年間に持続したただ一つの仕方は,終戦と共に彼が共産党員故野呂栄太郎の回想を所有し,出来ることなら独占的に所有せんとした仕方のなかに要約されている. その同じ流儀で彼は『親友三木清』をも所有する. その三木が野呂のごとく戦闘的唯物論者であったとは,さすがに彼も言いきれない. 三木は残念ながら観念論者である. だが三木の観念は,共産党員を匿うことによつて敢えて死をえらんだではないか. そこに彼の一切の挑発的駄弁の支柱がある


『哲学と死』に盛られている彼のもろもろの汚ならしく卑怯な吐瀉物を彼の肉体の一部と見てぼくは冷殺するが,この支柱の評価については彼以上に正しくぼくは承知している. そのことは人々に,もし必要ならば,彼のごとくぼくの津田博士批判論文中の末尾の一句に因縁をつけるかわりに,ぼくが特に三木を追悼するために書いた論文「三木清と『親鸞』」『国土』創刊号をとりあげることで,明瞭となるにちがいない


三木は終始観念論の哲学者であったが卑劣ではなかった. 三木はソクラテスのごとく自ら獄死をえらんだのではなかったが,自己の運命にたいしては最後まで高潔であった. 三木が昭和5年に検事にたいして提出した哲学的手記が『学生評論』第2号に発表されたのを読んだとき,ぼくは自分の「三木清と『親鸞』」における三木への評価がまちがっていなかったことを知って,彼のためにも自分のためにもよろこんだ. この手記は林基氏の羽仁批判論文が載った雑誌の同一号に載っているのだから,羽仁も読んだにちがいない. もしもあの『手記』のなかで三木がかれ自身のことをマルクス主義唯物論者であるといい,宗教のマルクス主義的否定者として自己を規定していたのであれば,その三木はその時までの三木でなく,その後の三木は平凡な転向者としての三木となり,共産主義者高倉テルを匿ったことも,一転向者の気の弱さのせいとなって一向へんてつもないのであろう. そのような隠匿者の例ならばたくさんある. だが,真実の勇気と決断と自己犠牲とをもって非合法共産党員をかくまいとおした人間は,無名の世界にもっともっとたくさん--この日本国土に厳存したのである


三木はあの『手記』のなかで自らを観念論者として規定したがゆえに,まさにそのゆえにこの高潔なる無数の無名者に伍する誇りを持ち得たのである. 羽仁が真実に三木の親友ならば贔屓の引き倒しは慎むべきであろう. 終戦後今日にいたる仕方において羽仁に所有されることは,おそらく野呂と共に三木の迷惑とするところである. かれはひとのことはいろいろといったりいわせたりしてきたが,いったい自分のことはどう考えているのであろうか?


メーリンクをもってみずから任じているのであるか? それともメーリンクでないからこそ三木の哲学的批判は自分には出来ないのだといっているのか?


帝銀事件に似て今のところ的確でないが,そのうち分かるだろう(1948/02/01)