『朝日新聞』1946/10/21 2面

新歴史教科書の特色



日本歴史の新教科書が許可されたが,最も著しく今までの教科書と変つたのは古代歴史の部分である. 従来の教科書では,古事記日本書紀の神話伝説からはじまつていたが,今回は考古学及び大陸の文献を研究して確実な歴史的事実と認められる事柄のみを以てあてることとした. 従って石器時代から金属文化の発生,国家の成立といつたやうな順序で筆を進めている. これが正しい古代史の学び方であることは,今までも歴史の専門家の間では誰しも異論のないところであつたのであるが,教育においては公に認められるに至つていなかつたのである. 新教科書がかやうな内容を備へて世に出たことは,学問的には決して新しいこととはいへないが,歴史教育の上からいへば,画期的な出来事といはねばならぬ. 今まで往々にして歴史教育と歴史科学とは別のものであつて差支へないといはれていた. 然るに今回の教科書によつて歴史教育がはじめて正しい学問的基礎の上に立脚することとなつたのである. これは必ずしも古代史の部分だけに限らず,新教科書ではすべての部分にわたり学問的に確認された事実のみを記すことにしたのである. 私たちのやうに歴史学歴史教育とが一つのものでなければならないと信じてきたものから見れば,歴史教育の大きな進歩といふべきであらう


次に,今までの歴史教育ではともすれば政治上或は軍事上の所謂英雄の事蹟に重きが置かれがちであつたが,このたびは広く国民生活の全般にわたつてその歴史的展開を少国民に理解させることを目標として教科書を編纂した. 私たちの考へによれば歴史というものはあらゆる国民文化の総合の上に成り立つものである. この見地からつとめて国民の全体にわたり,いろいろな層の人々の生活を描き出すことにつとめてきた. まだまだ不十分ではあらうが,従来に比べれば多少の進歩のあとはあらうと思つている. 第三に,今まで歴史といふものは左右を問わず,特殊な政治的主張の基礎づけに利用されがちであつた. 歴史哲学の理論からいつて純粋に不偏不党の歴史が成り立つかどうかはしばらく措くとして,歴史教育において特殊な政治的主張の強くあらはれることは望ましいことではないと考へる. 新教科書ではつとめて公平な立場から歴史上の人物の行動なり出来事なりを賞賛したり非難したりしないやうにし,正邪の弁別はすべて被教育者の自主的判断にまかせることとしたのである. これも一つの新しい試みといつてよい


細かい事柄について思ひつくままを一二拾つてみると,新教科書では年代は年号の他すべて西暦であらはすことにした. これはメートル法を採用したのと全く同様の理由からであつて,日本歴史を世界歴史の中において見る場合に世界共通の西暦によることが最も便利だからである. その上日本書記の紀元は客観的な時代の長さを示していないから,殊に古代史においてはどうしても西暦を用ひなければ正確な歴史を書くことが出来ないからでもある. ただしここで注意しておきたいのは日本書記の紀元が正確な年代をあらはしていないとしても,日本の歴史がずつと短くなると考へてはならない. 考古学の教へるところによれば,日本列島では西暦前数千年の前から人類の生活が営まれていたのであつて,日本の文化には従来文献だけで考へられていたよりもずつと古く長い伝統の存することを見逃してはならないのである


次に,今まで所謂北朝天皇には天皇の尊号を附せず何々院と申し上げてきたのを,新教科書では天皇と申し上げることにしたのも注意すべきところである. 所謂北朝の主を天皇と申すべきことは豊統譜令皇室陵墓令の明文の示すところであるにもかかわらず今まで教科書では正しい呼び名が用ひられていなかつた. これも新教科書の一つの特色となつている


新教科書の編纂は極めて短い期間に行はれたから必ずしも完全無欠とはいへないであらうが,少なくとも従来のものよりはいろいろな点で改善されていると思ふ. これを出発点として将来一層国史教育の進歩を期したいといふのが私たちの最も念願するところである