「飲酒と傷害」p.237 - p.245


『戰場心理の研究 戦場に於ける特殊現象と其対策 総論 17.』(1939/6)

飲酒と傷害

    早尾乕雄


酒の力が戦闘精神の旺盛にするとか行軍力を強むるの効果があるとすれば幾何に将兵に酒を多く加給しても文句はない,然し如何なる将兵に尋ねても酒が以上の成果を挙げた事実を証明した者は一人もなかつた. 酒の力でもつて恐怖心を忘れるとか疲労を麻痺させるとかは素人の考へ方で実戦中には酒を口にする者は殆どない 水筒に酒を切らさなかつたなんて事は昔の戦闘にはあつたかも知れぬが今事変では中毒者を除いては行軍中,戦闘中に酔つて居つた人は先づない. そんな事をしては到底身体がつづかぬからである. 但し筋力使用の少ない幕僚中には「ウィスキー」を口から放さなかつた者も少なくないと聞いて居る. 兵の中には支那酒を代用して却つて身を損ねた例はあつた


然し一先づ戦闘がすみ暫く休息に入つた時に於ては将兵は先づ良き水を求むるのだが支那は是がない 其處で兵站は心をきかせて「ビール」「サイダー」をどんどん前線へ送つて水の代わりに与えてる. 其の為に後方の「ビール」「サイダー」が品不足となつて値の騰起を見た位だつた. 誠に兵站の處置は感謝すべきである 故に前線は却つて酒に不自由をしないといふ現象がある


然し親の心も余りに過ぎると却つて害なるもので必要ならざる場所に徒らに多くの酒の存在することは色々の事故の原因となつた


戦闘に疲れた後の酒盃は悦を増し元気の快復にも役立つことがあろう然し簡居せる者の傍に酒多く更に女集ひ来らば自ら心乱る々に至るのは自然の結果と言へよう. 此處に飲酒と傷害の□を多からしめ傷害の原因は必ず過渡の飲酒であり是を防圧するには飲酒量を調節せねばならぬ声が当局に起つた所以である


酒の加給は兵の頭数を以てし其の中に酒の飲めぬ者も相当に居ることは度外視してある飲む人の分配量は適量を超える更に酒保から買つて来る故に一度酒の配給あるや忽ち乱闘となり器物飛ぶ位の事は覚悟せねばならぬ


部隊内の酒加給にあつてさへ此の通りである 是が外の飲食店に於ては如何なる事を為出かすかわからぬ酒の上の傷害の目立つて多かつたのは全てに酒の供給が多過ぎたからである



? 戦場報告の内容
早尾による 戦場報告および関連論文の内容を、
それらがかかれた順にみていこう。
1.戦場神経症竝ニ犯罪ニ就テ(タイプ打ち孔版印刷、
52 ペイジ)
昭和十三年四月 於上海第一兵站病院
金沢医科大学教授 予備陸軍軍医中尉
早尾乕雄
「緒言」には、長期にわたる過労の精神緊張は精
神機能を疲労におとしいらせて、緊張過度は精神病
ならびに神経病の誘因となり、精神弛緩時は犯罪が
これにともなう。これらの発生をすくなくするには、
その予防策をさぐる必要がある、とのべられている。
第 1 章「戦場神経症」では、1)懐郷病(神経衰弱)、
2)恐怖症、3)反応性神経症、4)外傷性神経症、がと
りあげられている。「懐郷病若クハ神経衰弱症」の発
病経過が、“予後備軍人ガ召集ヲ受ケシ刹那ハ大多数
ニ於テ「シマッタ」ト考ヘシト聞ケリ”とかきださ
れているところからもわかるように、早尾は陸軍軍
人のあり様を率直にえがきだしている。第 2章「戦
場精神病ニ就テ」では、躁鬱病、早発性痴呆(精神乖
離症)[統合失調症]、進行性麻痺性痴呆、酒精中毒性
精神病、伝染病による精神病、急性錯乱症(アメンチ
ア)がとりあげられている。早尾は、戦場に酒精を無
制限に配布することの誤りを指摘している。
第 3章「戦場ニ於ケル犯罪ニ就テ」には、“今時ノ
事変中将兵中ニ頻発セル犯罪事件ハ其ノ数極メテ多
ク其ノ原因ニツキテモ種々講究スルノ要ヲ感シ命ニ
ヨリ法務部及憲兵隊ト連絡ヲトリ[中略]調査ヲ実

連絡先:〒168-0072 東京都杉並区高井戸東 3-36-13 ライオンズマンション 201青柿舎
Address: Seishisha, Lions Mansion 201,Takaido-Higasi 3-36-13, Suginamiku, Tokyo, 168-0072 Japan

Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 9(2) June, 2009

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施”した、とある。軍隊での“員数ヲツケル”こと
の問題点、常人と精神病者との“中間者”の問題、
支那人強姦例ハ殆ト数ヲ挙ケ得サル程ノ多数”に
のぼった点、飲酒上傷害、上海の犯罪都市化などを
早尾は指摘し、“慰安所ヲ閉鎖シ遊郭ニ改ムルコト”
の提案もしている。最後に、軍人軍属における説諭
の統計、司法処分をうけた犯罪の統計がつけられて
いる。
中国に派遣されて 4、5か月でこれだけのものをま
とめている点にもおどろかされる。
2.昭和十三年五月 戦場心理ノ研究(総論)(手書
き、本文 97 ペイジ、早尾蔵書印、丸秘印)
昭和十三年五月 於上海第一兵站病院
予備陸軍軍医中尉 金沢医科大学教授
早尾乕雄
これは、あちこちにおおきな訂正があり、また欄
外の書き込みもおおく、おそらく提出報告の下書き
であろう。最後は“昭和十三年五月末日脱稿”とあ
り、また第 11 章「総括及結論」には、“余ハ前章迄
ノ内容ニ就テハ悉ク是ヲ自ラ見聞セシ事実ニ基イテ
記述シタノデアッテ実例ニ於テハ遠慮ナク発表シタ
積リデアル”とある。
構成は、緒言、第 1 章「戦場興奮ノ起源」、第 2
章「敵前ニ於ケル心理状態」、第 3章「第一線将兵
心理」、第 4章「第二線将兵ノ心理」、第 5章「後方
兵站部隊ノ心理」、第 6章「戦功ノ心理」、第 7章「勝
利者ノ心理」、第 8章「戦傷病者ノ心理」、第 9章「戦
争ト性欲」、第 10 章「犯罪者ノ心理」、第 11 章「総
括及結論」、となっている。
死に際に“天皇陛下万歳”をさけぶ者はすくなく、
妻子の名をよぶ者がおおい。将校が先頭にたって機
関銃をもって銀行をおそう。かの中山陵をあらし、
孫文ノ像ノ鼻ヲ拳銃弾ニヨリカイタ。更ニ頭カラ
「インキ」ヲカケタ”。余が南京にはいって、“其ノ中
ニ正規兵ノ捕虜ノ処置ガ始マリ海軍側ハ機関銃ヲ以
テ陸軍ハ斬殺、銃殺ヲ行ヒ其ノ屍体ヲ揚子江ヘ投ジ
タ。死ニ切レナイ者ハ下流ニ泣キ叱ビツゝ泳ギユク
ヲ更ニ射撃スル。是ヲ見テモ遊戯位ニシカ感ジナイ”。
上海は兵により犯罪都市化した。慰安所は兵にはた
かすぎて、強姦はやまない。強姦された支那人看護
婦が部隊長にうったえたところ、“皇軍ノ兵士ニ強姦
サレタラ光栄ニ思ヘ”とどなられた。戦功にはしっ
て、かえって兵をおおく損傷する将校がいる。“今次
(ママ)変ニ於テ目立ッタ軍部ノ副業ノ一ツニ慰安所
ナルモノガアッタ[中略]如此将兵ノ性欲ノ吐(ママ)
ケ場所ヲ何人ガ考ヘ出シタノカト其ノ経営者ニ問フ
タトコロ現文相荒木大将閣下ナリト答エタ[中略]其
ノ設置に当ル者ハ本科ノ将校デ[中略]女ヲ選ビ商売
ニ適不適ヲ決定スル者ハ軍医デアル”。“今事変ハ殆
ンド予後備ノ編成デアルカラ将校ヨリ兵ノ方ガ年齢
ガ長ジテ居ル”。“就中兵ノ気分ヲ害スルノハ将校ノ
酒癖ト不品行デアル”。“軍規ノ紊乱ハ将校ガ作ッテ
ル結果トナル”。
早尾の文章から目につくところをかきぬいた。早
尾はもちろん皇軍将兵の美点もあげている。だが、
全体としては、光栄ある帝国軍人にはにつかわぬ姿
を早尾の筆は容赦なくえぐりだしている。
3.戦場神経病・精神病及犯罪 各論第一編