長谷川テル「失くなった二つのりんご」

失くなった二つのりんご


-- 病床で



    長谷川テル



(太陽の降り注ぐ縁側で,私はいつものように,月に一度母に「特別な世話」をする)


ほんとうにふしぎだ. いつもは半時間もかければなくなってしまう白髪が,今日は減らないどころか,反対にますます増えてくる


疲れきってみえる鏡の中の母は,じっと黙ったままだ


-- 英[マー]ちゃん


いきなり,厳しい声がする. こんな声を今まで母から聞いたことはない


-- どうして,おまえはまた,おかあさんがあげたりんごを二つともなくしてしまったの


-- だって,お母さん…


私は困って,蒼白い頬を手で押えた


-- 上海にいた時分は,まだりんごも少しはあったのよ. でもね,おかあさん,それからあとは,広州でも,漢口でも,重慶でも,もうりんごはなかったのよ. それでとうとう,私のを食べてしまったわ


母は何も言わぬ. 私も強情におしだまったまま手だけを動かしている. 白髪はとめどもなく増えてくる. もう頭全体が白くなった. 我慢しきれずに私は叫んだ


-- おかあさん


返事はない


-- ねえ,おかあさん


半分怒って,半分ふざけて,私は母の痩せこけた肩に手をおいた. そして,母の顔をのぞきこんだ


あっ,母ではない. 石膏の像だ. 冷たい,氷のように冷たい石膏の像だ


そして目がさめた


頭の中がズキンズキンと痛む. あぶら汗で胸がびっしょりだ


そこかしこ あかりがまたたいているのに


なぜ あなたの窓だけが暗いのかしら


おかあさん --


若葉の中からやってくる春の夜の微風が


あなたの重く疲れた頭を優しく さわやかに なでてくれないかしら


闇の中にほの白いあの庭のはしどいが


あなたの弱った身体を甘く かぐわしく 抱いてくれないかしら



いえ いえ 私は知っています


ぴったりと閉まったガラスの窓のうちで


重くたれ下がった青いカーテンのうちで


あなたがラジオのダイヤルを


静脈の浮いた震える指で回していることを


あなたのお好きなバイオリンの調べが消えて行き


ジージージー ゴーゴーゴー


いりまじった雑音があなたの耳を苛立たせることを


でも,やがて --


海を越え 山を越え 聞こえてくるその音が


あなたの知り抜いているその声を


大きくなった小鳥のように あなたの懐から飛び去った娘の声を


運んで来ることを


毎晩のように私はマイクの前に立ち


おかあさん! とよびかけたい思いにいつもかられるのです


煮えたぎり 張り裂ける ようなものが


私の中を駆け抜けているのです


しかし 次の瞬間には目の前に


いろいろな 数えきれないほどの顔が浮かぶのです


悲しげな 疲れきった 飢えた 怒った 怨みのこもった


男の 女の 子どもの 老人の顔です


おかあさん!


たった一人の 何よりも大切な私のおかあさん


だけど私は あなただけのものでいることができないのです


私だけの小さな幸せをこっそり楽しむようにとは


もう 言わないでほしいのです


この恐ろしい戦争の そして


涙と 溜め息と のろいのあらしのさなかに



「誇りを失った売国奴」--


ファシストの手先の毒を含んだ舌が


意地悪で無知な 悪意に満ちた周囲の眼が


それでなくても弱っているあなたの心をいっそう苦しめます


だけど おかあさん


目を大きく見開いて このマーちゃんを見つめてください


か弱い 苦しむ人びとへの愛と


彼らを苦しめぬくすべての者どもへの憎しみ


これが あなたが私にくださった


「誇り」という価値ある宝物です --


それを一かけらでも


私がなくしてしまったというのでしょうか


あなたの娘が


なくしてはいけないのに失ったもの


それはただ -- 両頬の赤さだけです



数週間前


そのなくなった二つのりんごをさがすため


私はM温泉へ出かけました


緑の大地には 爽やかな光が降り注ぎ


黄金色の菜の花が目の前に広がっていました


明るい紫色の空豆の花の なまめくようなかおりが


疲れた私をうっとりさせました


ああ ここは 私が幼い日をすごした


あのK村ではないのでしょうか


あなたのたもとをひっぱって


「春が来た 春が来た」と


大きな声で歌いながら 飛んだりはねたりした


あの野原ではないのでしょうか?


-- 戦争を知らない永遠の楽園


私はあまりにも早く この楽園にさよならをしてしまいました


思い出が楽園から私をせきたて 追い出したのでしょうかしら?



北から南へ 東から西へ


二年にわたる果てしない放浪のうちに


私の頬のりんごは いつのまにかなくなってしまったのです


ごめんね おかあさん


だけど 盗んだ犯人を私はよく知っているのです


その憎むべき手は同じです


それは何十万 何百万の若者や幼児から


頬の赤さを奪った手です


この中国でも 私の祖国日本でも



私 そして私たちは


奪われたものを取り返さねばなりません


どうしたら 取り返せるでしょうか


青白い かりそめの「いこい」によってでしょうか?


おかあさん


耳をふさがないでください 目をおおわないでください


たとえ あなたが死ぬほど恐れていようとも


燃えたぎる戦いの坩堝の中からのみ


失くした りんごを いつの日にか取り戻せるのです


だけど おかあさん


たとえ あなたの娘が


せっかくいただいたあのりんごを


永久に失くしてしまったとしても


どうぞ しかったりしないでください


大切なおかあさん 分かってほしいのです


この大陸で 日本で 広い世界で


赤いりんごが永遠に美しく実るようにと


ときならず落ちた無数のりんごのうちの


たった二つだけだ -- ということを