「陸軍娯楽所」の開設と私

昭和十三年のはじめごろ当時上海派遣軍の兵站病院(福岡市高宮福海町鵜沢院長)の外科病棟に勤務していた私へ軍特務部より呼び出しが来た. 何でも婦人科医が必要であるとのことだった


当時大場鎮の激戦の跡で日夜戦傷患者の治療に忙殺されていた時ではあるしまたそのころまでの常識として戦場と婦人科医との関係など毛頭も連想がつかなかった. とりあえず同僚のもう一人の婦人科医と出かけて行った


命令にいわく『麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為目下其美路沙□(さん)[*1]小学校に待機中の女子百余名の身体検査を行う可し』


ただちに私たち一行,軍医兵隊それに福民病院の看護婦二名を加えた名にて出かけたこれが「日支事変」以降「大東亜戦」を通じて兵站司令部の仕事として慰安所管理の嚆矢となった


当時軍の輸送規定には兵隊軍馬の項はあっても婦女子の項はなかったのではなはだ失礼なことには物資輸送の項に該当させたりなど今から考えると妙なことであった


彼女ら「皇軍兵士」の慰問使として朝鮮および北九州の各地より募集せられた連中であった. 興味あることには朝鮮婦人の方は年齢も若く肉体的にも無垢を思わせる者がたくさんいたが北九州関係の分は既往にその道の商売をしていた者が大部分で後者の中には鼠蹊径部に大きな切開の蹊瘢を有する者もしばしばあった


私はのちほど軍医会同にて一文を物して,この娼婦の質の向上を要求した. 即ち内地を喰いつめたような者を戦地へ鞍替えさせられては,将兵ははなはだもって迷惑であると. 中支方面に従軍せられた方で気付かれたことと思うが,南京・漢口等の将校クラブに朝鮮婦人の多かった事も,この辺の事情に起因していると思うはあえて私の僻目ではなかろう


かくして上海軍工路近くの楊家宅に軍直轄の慰安所が整然とした民営アパートの形式で完成した. その慰安所規定に曰く[*2]

慰安所規定

一. 本慰安所には陸軍々人軍属(軍夫を除く)の外入場を許さす. 入場者は慰安所外出証を所持すること


一. 入場者は必ず受付において料金を支払ひ之と引替に入場券及「サツク」一個を受取ること


一. 入場券の料金左の如し


下士官・兵,軍属金貮圓


一. 入場券の効力は当日限りとし若し入室せざるときは現金と引替をなすものとす 但し一旦酌婦に渡したるものは返戻せす[*3]


一. 入場券を買ひ求めたる者は指定せられたる番號の室に入ること但し時間は三十分とす


一. 入室と同時に入場券を酌婦に渡すこと[*4]


一. 室内に於ては飲酒を禁す[*5]


一. 用済みの上は直に退室すること[*6]


一. 規定を守らさる者及軍紀風紀を紊す者は退場せしむ


一. 「サツク」を使用せざる者は接婦を禁す


[中略…写真から読み取れない]


兵站司令部


右のようにはなはだ無粋なやり方ではあったが,かみしも商法の暖簾をかかげた


やがてこれに呼応して民間側にても江湾鎮の一角に数軒の慰安所が開設されるようになった. この方は普通の民家を利用した建物構造で衛生管理,消毒施設などははなはだしく不徹底で,絶えず管理医官たる私の御小言を頂戴していた. しかしサービスは前者に比べると良いらしく,その看板の謳い,殺しの文句にも,


聖戰大勝の勇士大歓迎


身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス


という具合にて前者の官僚統制型に比べて,いかにも自由企業的雰囲気であった


その後私は南太平洋へと転じ,ラバウルの対岸ココポ飛行場の対空陣地附軍医となった. 当時ラバウルは帝国海軍第八根拠地司令部の所在地で陸軍はここに第八方面軍司令部を設置することになった. 市内には色々と慰安娯楽の施設もあり,喫茶店にもピアノとともに可愛い混血娘も見られ,いかにも海軍らしい上品さを保っていた


ガダルカナル島転進作戦の前後より陸軍慰安所の移動設営もあり時ならぬ賑を呈したこともあった. 不覚にもこれら建物が米機の低空機銃掃射を受け,死傷者を出したことがあった


この時の軍司令官の訓示にいわく「鞍上鞍下に安逸を貪るなかれ云々」と,けだし名言であった


ココボ地区にも数軒の慰安所が出来,その一つは京城楼と称し20名の朝鮮婦人と経営一行5名余の朝鮮男子がおり,兵站司令部付属の時計修理班と同一建物の中に開設した. いつの間にか兵隊の間に「時計修理に行く」という隠語が出来た. 即ち精工舎セイコー舎である


ここでもある日,兵站司令部に私は婦人科医として呼び出された. 若い現役の軍医に検診の要領を教え,当分加勢をしてくれとのことであった


第一回の検診で二名の妊娠者が発見された. 当時戦況不利となり彼女らは後方基地パラオ方面へ移動することになっていた. とりあえず人工妊娠中絶を行うことにしたがこれに要する器具がない. やっとカトリック病院に渡りをつけキニーネ錠と交換に一式を借用に及んだ. ヘガールの子宮頸管拡張器であったが途中番号の二三本脱けているような代物であった. さて手術実施の朝となり,米機の大爆撃に付近一帯は大騒ぎとなり,手術どころではなく,慰安所の建物もその後跡形もなくなった. ただ壊れた建物の下からたくさんのサックが発見され,私らはこれを拾って防湿貴重品袋としたり海難に備えての薬品の放送容器として珍重した


特にこれらは現地製のため,分厚く形も単純で先端のふくらみなどないのっぺりした袋形でむしろ衛生サックというより物入れという感じの品物であった




浅からぬ因縁


【…以下省略…】


*1:□: さんずいに旁は行人辺のない「徑」

*2:引用は『1億人の昭和史』p.64下,WAM『日本軍「慰安婦」問題すべての疑問に答えます』p.20写真より起こした,原文は片仮名

*3:「効力」の項は『元軍医の証言』にはない

*4:「酌婦に渡す」の項は『元軍医の証言』にはない

*5:「飲酒を禁す」の項は『元軍医の証言』にはない

*6:『元軍医の証言』では「用済み」の項まで紹介…「(以下省略)」されている