『回想八十八年』「関東大震災に遭遇」

関東大震災に遭遇


[ p.286 ]大正12年(1923年)9月1日 大震災が発生した 私は滝山町([現在の]銀座6丁目)[朝日新聞]社屋の4階にいた 大変な揺れ方で 机に掴まっていても倒れそうになる 外を見ると 大きな日本料理屋の屋根瓦が ザザー と一気に落ちて行く 凄まじい光景だった


これは大変なことになったと思ったが そのうち 地震は少し治まった 社内の様子を見ると 活字棚はみんな倒れ 機械は停電のため回らなくなっていた 新聞は出せそうもないが ともかく 社を守らなくてはならない 私は社内全員に「独身者だけは残れ 家族持ちは家がどうなっているか分からないから一応帰れ 無事であったなら 社に帰って来い ただし社屋が安全かどうかは分からない この付近で一番安全なのは二重橋の所であろう 社屋が危ない時は二重橋のまん前に避難するから その辺りを捜せ」と指示し 家族[ p.287 ]持ちは帰した


独身者はかなりいた 私は総大将として その連中の指揮に当った


そのうち火事が拡がり始めた 斥候を出して様子を見にやると もう新橋辺りまで燃えていると言う 夕方6時頃には 朝日新聞社屋の周りまで 火の手が延びてきた 瓦が落ちているものだから 屋根板のあちこちに ポッポッと火がつく 社の裏に 平屋の低い家が数軒あった 私は4階の屋根の上からメガホンで 下の若い者に何処に火がついたかと知らせる こういう時は不思議なもので 若い者は 台も何も無いのに ひさしにパッと飛び上がったものだ そうして火を揉み消している こっちについたぞというと またそっちへ 飛び上がって消す こうして懸命に消火活動を続けたが遂に火に囲まれてしまった 見渡すと銀座方面だけ火が無い 新橋駅の方から滝山町にかけては ずっと一面 火の海である こうなっては銀座の通りに出て 何処かの橋から丸の内に入るより他にしようがないと思った 全員を集め「もう危ないから皆引き上げよう 持てるだけのものは持って行け」と命じた


社屋を放棄していったん銀座に出て 読売新聞のそばの橋を通った 社屋から一番近い数寄屋橋は もう焼けていて通れなかった 途中 いろんなものが捨ててあった 逃げる時 持[ p.288 ]ち出したものの 持ちきれなくなったのだろう 蒲団まで捨ててあった まだ飲んでないサイダーの瓶が何本か転がっていたので 私はそれを両手に拾って 二重橋の前まで行った 若い者にも落ちているものを拾って来いと命じ 二重橋の前で蒲団を敷いて 一休みした


日が暮れようとする頃 陸軍がテントを持って来た 軍人のところへ行って「朝日新聞ですテントを貸して下さい」と交渉し貰い受けた 私はその中へでんと構え込んでいた そのうち下村さんも駆けつけて来ていろいろ指図してくれた


さっそく大阪に通信を出さなくてはいけない しかし交通関係がどうなっているか不明である 警視庁や内務省などに聞いてみても何処までどう行けるのか全然分からない とにかくあらゆる機関を臨機応変につかまえて大阪本社へ連絡員を出そうということになった ところが 金がない


いつも銀行にお昼頃取りに行っていたので 当日も 会計の者が出かけたのだが その矢先に地震にあったわけである


誰か金を持ってないかと聞くと 米田(まいだ)実外報部長が幾らか持っていた 一人がポケットから出したぐらいではとても足りない どうしょうもないので下村さんが旧藩主の紀州の殿様の家に行って借りてきてくれた そこで東海道・中仙道・東北の三道を 各々二人ずつ組んで 大阪本社へ向かわせるようにし それまでの震災の様子を書いた原稿と金を持たせて出発させた


まっさきに成功したのは 東海道を行った組であった その組が横浜まで行ってふと気が付いたのは 陸上の通信は皆壊れてしまっているが船の無線は使えるだろうということだった 港には大きな船があるだろうということでそこへ行き船から通信を出した これが大阪への詳しい第一報になった 他の組も時間は遅れたが何とかして大阪本社へ連絡することが出来た


次の仕事は朝日の臨時本部を作ることだ 夜中の12時頃 社屋がどうなったか 私は伴を連れて見に出かけた 並木通りなどは みんな焼けている どういうわけか水道の水は出ていた 落ちていた蒲団を拾い 水をいっぱいかけて 伴の者と二人で それを頭から被った 並木通りは両側からの火気でそうしないと通れなかった 息が詰まりそうになると暫くかがみこみ 息が出来るようになるとまた進むというふうにして とうとう社屋の所まで辿り着いた 窓から覗くと火がチラチラしていて熱くてたまらない さっと引き下がりまた暫くして覗きこむ 中では新聞の巻取紙がブスブスもえており 機械は燃えてたれ下[ p.290 写真説明「震災直後の朝日新聞社」 ]がっていた これはとてもいかん 巻き取り紙はほかから持ってくるとしても 機械の手配から始めなければならぬ 大変なことになったと思った


帝国ホテルは焼けなかったので一室を早く借りたいと思った 夜中にアサヒグラフの編集長 鈴木文四郎君を 使いにやって交渉させたところ 一番先に頼みに行った組だったから 幸いに 大きい部屋を二つ借りる事が出来た そこに編集・営業・庶務を入れる事に決め その晩は 宮城前で夜を明かす事にした


記者の一人を警視庁に情勢を聞きにやらせた 当時 正力松太郎君が官房主事だった


「正力君の所へ行って 情勢をきいてこい それと同時に食い物と飲み物が あそこには集まっているに違いないから持てるだけ貰って来い 帝国ホテルからも 食い物と飲み物を出来るだけ貰って来い」と言いつけた


[ p.291 ]それで幸いにも 食い物と飲み物が確保出来た ところが帰って来た者の報告では 正力君から


朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから 各自 気を付けろということを 君たち記者が回る時にあっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった


そこにちょうど下村さんが居合わせた「その話は何処から出たんだ」「警視庁の正力さんが言ったのですが」「それはおかしい」


下村さんは そんなことは絶対にあり得ないと断言した


地震が九月一日に起こるということを予期していた者は一人もいない 予期していれば こんな事にはなりはしない 朝鮮人が九月一日に地震が起こる事を予知してそのときに暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか 流言蜚語にきまっている 断じてそんなことを喋ってはいかん」こう言って下村さんは皆を制止した


私たちは 警視庁がそう言うなら 何かあるのかなと思っていたけれど 下村さんは断固としてそう言われた これは下村さんの大きな見識であった 普段から 朝鮮問題や台湾問題を勉強し経験を積んできているから、そんなことはあり得ないという信念があったのだと思う だから 他の新聞社の連中は触れて回ったが 朝日新聞の連中はそれを[ p.292 ]しなかった


しかし食い物だけはいろいろ貰ってきたので私がそれを箱に入れておいた「どこどこを視察して記事を書け」と命じ それをちゃんとやつて来た者には御褒美にサイダーとパンをやつてげきれいする というような事をしながら一晩テントの中で過ごした


その晩政友会の森恪氏が自動車でやつて来て「震災見舞です」といつて西瓜を二つ持って来た 余裕綽々だなと思って私は感心した しかも和服だつた まるで別世界から来たような感じで強く印象に残っている


私は一晩中編集の記者たちの指図もしていたが翌日になると編集の部長連中も出てきたので この辺で交替して貰い自分の家を見に行こうと思った


私の家は大森にあった まだ水道がなく私の家には井戸が一つあった 出が悪くなつていたので井戸浚いをやつていた だから当日は 家族の者は黒門町の義母の所へ行っており女中たちだけ残っていた 当時長女の京が満三歳 次女の好子[*1]はようやく満一歳でヨチヨチ歩きをしていた 女房のお腹には長男の公一郎がいた 心配でしょうがなかったが 営業部長代理で経理部長である私は帰るわけにも行かないので地震が起こるとすぐに秘書の内藤直茂君に「自動車に乗って行ける所まで行って捜しだし大森の自宅に連れて帰ってくれ」といつて送り出した 内藤君は久留米商業の野球選手で 甲子園にも出場した元気者なのでこういう時には大いに役立った 彼は後に朝日[新聞]をやめ銀座に「いわしや」を作って成功した 彼が黒門町に行くと久子[*2]たちは広い電車通りに避難していた メガホンで呼んでようやく見つけ 車に乗せてなんとか抜け出し 大森海岸まで行った ところが海岸から先は車が通れない 人力車を一台捜し出して 久子と好子を乗せ 内藤君が京を抱いて 海岸から大森の家まで歩いて帰った 家は幸い無事だったので やっとそこへ落ち着いた


私は内藤君から ここまでの報告を聞いていたから 社の者が二重橋前を引上げ帝国ホテルに移ったのを見届けて 九月二日の夕方家へ帰った


家に着くと「朝鮮人六郷橋のほうに終結していて 今晩中に押し寄せて来るから みんな小学校に集まれ」ということだった 私はちょっと様子を見て また社に引き返すつもりであったのに 大変なことになつたと思つた 家族を見殺しにするわけにもいかないから 社には使いをやり「こういうわけで今晩は帰社出来ない」といっておいた


下村さんの話を聞いていたから そんなことはあり得ないとは思っていたがとにかくみんなを連れて小学校に行った 小学校はいっぱいの人であつた 日が暮れてから演説を始めた者がいた「自分は陸軍中佐であります 戦いは守るより攻める方が勝ちです 敵は六郷川に集まっているというから われわれは義優隊を組織して突撃する体制をとりましょう」と叫んでいる


馬鹿なことをいうやつだと思ったが そこに集まった人々も特に動く気配もなかったから私も黙っていた


そのうち「井戸に毒を投込む朝鮮人がいる そういう井戸には印がしてある」等という流言が入ってきた 後で考えると 嘘っぱちばかりだった 私は趣旨としては下村さんのいう通りだと思うけれど 警視庁もそういってるし 騎虎の勢いでどうなるか分からないと懸念していた 夜明けまで小学校にいたが 何事もなく時々いじめられた朝鮮人が引きずられて行くだけだった


翌日から 私は帝国ホテルへ戻って[*3]また指揮をとった 記事は大阪へどんどん知らせた しかし機械は火事で全部使えなくなっている 活字も皆駄目になっている そこで 東京市内の印刷屋を回らせ活字を買い求めたところある程度は集まった また余所からの注文を受けている機械だが 朝日新聞なら先に回してやってもいいという印刷機械屋がいたので マリノニ印刷機の予約をした しかしそれも月末頃でないと出来ない 焼けたものをなんとか修繕出来ないか と聞くと 月末頃には直るかも知れないということだった 皆が朝日新聞優先でやってくれたおかげで 9月末には新しくできた 2,3台の機械と古いものを修繕した分とを試運転するところまで漕ぎ着けた


震災の日以降 それまではどうやったかというと 大阪本社は高速度輪転機を持っていたし 紙数を増すことも自由だったから全部大阪朝日が刷りその分を東京から北海道まで送った 一日遅れになる所もあったと思うがとにかくこれでカバーした 震災後も新聞が読めるということで読者から喜ばれた


再建のため営業局長に就任

震災の時焼け残ったのは 東京日々新聞と報知新聞だけであった あとは全部焼けた 報知と日々は 今まで20万部以上出すのは珍しいことであったが 今度は幾らでも売れ 両社共 34,35万ずつぐらい刷った …

*1:次女の(石井)好子…後に日本シャンソン界の重鎮

*2:光次郎の連合い 久原房之助=日立製作所幹部=の娘

*3:小学校で夜を明かしたのは9/2の夜だから9/3