"鏑木清一 米兵"でぐぐってみた

===この項,2007/05/15 追記===

「朝霞の歴史から世界が見えてくる」というテーマで朝霞で教鞭をとりつづける社会科諭,中條克俊の活動をまとめたwebsite 君たちに伝えたい,中條克俊 http://chujo.tv/

2007/03/30 パンパンの文化
2007/03/30 「パンパン考−パンパンなる悲しくもたくましき存在」パンパンに生きる

2007/03/30 米軍基地の名前の付け方

ラク町のおトキ [上記 パンパンの文化 より 一部を紹介 http://chujo.tv/category/2861546-1.html ]


ところで,パンパンの世界にはそれなりのヒエラルキー,つまり上下関係の秩序と掟があった. そのパンパンの世界がNHKのラジオ放送の電波にのった. パンパンの生の声が「ガード下の娘たち」として放送されたのである. 1947(昭和22)年4月22日の『街頭録音』という番組の中でのことである. NHKの藤倉修一アナウンサーのインタビューに答えたガード下の娘=闇の女は19歳の「ラク町のおトキ」こと西田時子さんである.


    「私はラク町のおトキという不良少女,まあ愚連隊ね. このへんの女親分の夜嵐のアケミ姐さんとお盃を交わした妹分です. 妹たちはそうね,ラク町だけでもいま150人くらいはいるでしょうね」
     
    「こんな生活を3カ月もつづけたら,もう決して救われないわね. 病気にはなる,サツにはあげられる. だんだん箔がついてくると,一生かたぎにはなれないんだという気がしてヤケになるのね」


ラク町とは有楽町のことである. よその女がシマを荒らしたといっては『肉体の門』さながらのリンチが加えられ,仲間のものを盗んだといってはヤキをいれられるということは日常茶飯事であったようだ. 藤倉修一アナウンサーは当時を振り返って「頭がいい子だったんだよ. まだ19歳だったけど. 両親とも戦災で焼け死んじゃってね. 自分も髪の毛が抜けちゃったらしくとずっとターバンを巻いていたな」といい,その1年後に思いがけず西田時子さんから手紙が届き,あまりにも感激して平行して担当していた『社会探訪』という番組でラク町おトキの更生談を放送したとのこと. すごい反響で,全国からお金が来たり,バイブルが送られたり,結婚の申し込みまであった. 藤倉アナウンサーに届いた西田時子さんからの手紙とはどんな内容だったか.


    「私は実はあの後,自分が出た放送を聴きました. 女だてらに思い上がって,ヤミの女たちに姐さんと呼ばせ,親分て慕われていい気になっていた私は,何という馬鹿でしたろう. あの時藤倉さんに威張ったように,ラク町の女を一人でも多く更生させるためには,私自身がまず足を洗って現実の社会に飛び込み,その苦しみを味わなければと思い,東京を去りました. ずいぶん固い決心で堅気の生活に入った私ですが,浮世の風はあまりにも冷たく,私の決意も時には崩れそうになります. そんな時いつも思い出すのは藤倉さんの言葉です. 『あなたの力で一人でも多く,ここの娘たちを更生させてやって下さい. 』そして私は決心を固め,心の底から武者震いいたします. 今私はあの放送が私の更生のポイントになったことをお知らせして,心から藤倉さんに感謝します」


西田時子さんのその後は定かでないという. またこの『街頭録音』の「ガード下の娘たち」に関して,『週間朝日』(1947/11/2号)の「闇にひらく東京の花」という題で開かれた山川菊栄労働省婦人少年局長(当時)を囲む座談会で「ラクチョウの女」の一人である仮称D子がその時のことを次のように語っているのは興味深い.


    「アタイ一番シャクにさわったのは街頭録音,ほらのったでしょう. ヤミの女の街頭録音って. あれ,アタイたちなのヨ,最初は看破られちゃって,二度目に来た時も,アタイが電気のヒモを見つけちゃったのヨ. そしたら『これは電話を直しに来たんだ』なんていったけど,アタイたち,もう相手にならなかったワ,そいでネ,上野はノガミ,池袋はブクロ,なあんて返事しといて,『あ,彼氏が来たわよう』って叫んで向こうへいっちゃったの,だけど,あれは卑怯だと思うわ,なぜ,初めから堂々と来ないのかしら・・. 」

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