飯島きみ君について


「東京吾嬬町(現墨田区)の東京モスリンに紡績女工として働き東京合同労組に加入. 1929年(昭和4)日本共産党に入党. 翌30年プロフィンテルン第五回大会に代表として出席. クートベに学んで31年帰国. 共産党中央婦人部員として東京,神奈川等で活動. 32年10月の熱海事件弾圧はのがれたが, 翌33年捕らえられ, 栃木刑務所に服役中25歳で獄死した. 遺族不明」(解放のいしずえ)


この同志は私ととくに縁故がふかい同志なので若干くわしくかいておこう


飯島は, 千葉県海上郡旭町太田宿の提燈屋倉吉氏の長女として1911年に生まれた.「遺族不明」となっているが, 1945年11月7日の解放運動犠牲者追悼大会に, 私がこのお父様に手紙を出して招待したところ, 大変よろこんで返事をくれた. しかしなにかの都合でこられなかった. さいきん私が調べたところによると, その後両親も弟妹も結核でなくなられ, 一人のこった名前不詳の弟さんが八日市場で料理屋をしているということであるから, 千葉県の党機関がもっとくわしくしらべて下さるよう, このさいお願いしたい


飯島のいた工場は東京モスリン亀戸工場(吾嬬町亀戸)で, 私や細井和喜蔵がいた工場である. 吾嬬町請地に京モスの吾嬬工場が別にあって日本紡織労働組合の初代組合長である山根権三郎氏はここから出た. 全協日本繊維が存在した期間中その拠点であったのは前者である


飯島はその工場の第一工場三紡機の二番ではたらいていた. 彼女は当時の女性としては大きい方で右か左に首をかしげる癖があった. 目のぱっちりしたはなはだ印象深い顔の持主であった. 飯島こそ私や大和庄祐(現在函館地区委員)が, 直接育てた数少ない婦人活動家の一人である. はじめ私たちが主催した研究会に出席(この研究会に集った常連は4000人中10人くらいである), だんだん組織的なつながりを持つようになった


私や大和がこの工場を追われる直接の原因となった第二工場精紡の女工ストライキのさいにも, 田浪はるという栃木県小山町出身の婦人と二人で, 実にすばらしいはたらきをした


ストライキで寄宿舎に立てこもった女工たちにたいして, 会社は暴力団のような組合幹部と人事課員をつかって弾圧したが, 男子の出入りを禁止している寄宿舎で, 飯島と田浪は独自に人の女工を指導してストライキを勝利にみちびいた, 1928年の夏, 飯島が17歳のときである


この事件で, 私たちが首になったのちも, われわれと連絡をたもち, 私の検挙されたあとは阿部義美君の指導をうけた. 1928年の8月から1929年1月ころの間に私のすいせんで共青に加盟したはずであるが, 党の関係は, 4・16当時ここの細胞キャップであった秋田の鈴木清君が知っていると思う


私は1929年の7月検挙されたので, その後のことはきいたはなしであるが, プロフィンテルン大会への代表団は, 団長紺野与次郎, 通訳は蔵原惟人であった. 飯島は当時日本産業の中心であった紡績女工出身として, 在ソ中, ロゾフスキーや片山潜にとくにかわいがられたそうである


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飯島と関連して, とくに書いておかなければならないのは, いわゆる「赤旗事件」[*1]である


熱海事件によつて党中央が壊滅的打撃をうけたのち, 中央の再建にあたったのは, のちにスパイとして摘発された大泉や小幡たちであった. (この点関係諸同志は明かにする義務があろう), 飯島と内海秋夫, 山下平次の3人は, かれらを信用出来ず独自に『赤旗』を再刊した. これが分派活動あるいはスパイ活動として査問にふされ, 3人とも除名になった[注:id:dempax:19321224を参照下さい]


山下がどういうたいどをとったかは忘れたが, この男は検挙された後. 大審院検事の一人に泣きをいれて減刑釈放されている. 46年の第一回衆院選に鹿児島の党候補として立候補したが, 神山茂夫君がもんだいにしていたのを記憶している


内海についてはのちにのべるが, 内海と飯島は町工場にはいって活動中逮捕された. このたいどは共産主義者として立派だったといえる


しかし飯島は入獄後は, 同志の差入れをことわるようなたいどで生活したが非転向であったとみえて実刑を課された(5年か7年)兎に角, 飯島が転向した事実はだれも知らない


飯島の地下活動中のことは,作家の山代巴その他が, 警察では佐次真未, 栃木刑務所では山本正美夫人の菊代[*2]の各同志が一緒に活動したので, これらの同志がこの文を補正してくだされば幸いである


また党の歴史の上でも, 貴重な一頁をなす「赤旗事件」についても, 関係者は飯島や内海らのように除名になったまま獄死した戦士のために, その党のために明かにする義務があると私は考える


国際舞台で活躍し, 革命を志していたとはいえ, 飯島が1935年11月獄死した時ですら. 数え年わずかに25歳であった. 彼女が在ソした1930〜31年は20歳から21歳にかけてである. そういう時代に結婚した男がやくざであり, おそらくつかまったときもだらしがなかったのであろう


そして自分は除名されるという革命家としてまことに悲しむ状態にあるとき, そして,まさにその年, 佐野学, 鍋山貞親, 三田村四郎のような当時の党幹部がうらぎりをやり, 党があたかも音をたててくずれるようなじきであった


だれも彼もが転向した. 地下にあるもののなかには浮び上って自首するものさえでた


そういうときに飯島はたいほされたのである. ときに23歳であった. こういうことは飯島に相当の打撃をあたえたにちがいない. 飯島は共産主義の大道を信じ, あたうかぎり良心的にふるまい, しかも悩みつつ獄死したのである


私はこんにちにして飯島のなやみについて思いをいたすことができるのであるが, 彼女もまた, とうとい解放のいしずえの一人である

*1:赤旗事件[せっきじけん]⇒id:dempax:19321224

*2:『アカハタ』1958年7月2日(4面) 山本菊代「ぱっちりした目が飯島喜美さんのこと」⇒id:dempax:19580702」, 山本正実『激動の時代に生きて 一共産主義者の手記』マルジュ社,1985/8/1第二部第五章「党員群像」に再録