日本共産党との関係

広島県三次刑務所長に提出〜1943年前半頃


【『山代巴獄中手記書簡集』p.112 - p.114】


では日本共産党とはどのやうな関係にあつたかを述べて置きます

日本共産党との関係

私が女工生活に這入つた昭和7年[1932年]の春の頃は, 日本共産党の指導下にある左翼労働組合や文化団体の工場内組織は盛んに工場内活動に潜行して居たので, 工場内の彼らの細胞組織は女工達の一挙一動作を敏感に感受し, 党上部に報告して居たものと思ひます. ですから私が昼は工場に働き夜は夜学の教授をし, 後に人手に渡した松葉保育園経営の設計などして居る事が, 彼女等に知られないで居る筈はありません


松葉保育園と云ふのは湧井先生の名によつて経営されましたが, 幼稚園と乳幼児の託児を昼間の仕事とし, 夜は女工達の夜学,読み書き,裁縫と, 特に専検(専門学校入学資格検定試験受験者の受験準備授業)がなされ, 夜の部の専検受験者の授業は, 私の肩にかかつて居たものです. 私の女工生活は半年位で切り上げられ専ら此の仕事に精出して居ました


当時日本共産党の中央委員の一人であり, 党指導下にある全協(日本労働組合全国協議会)繊維労働組合婦人部長であつた(今検挙によつて警察官の示された彼女の手記と写真を参照すれば, 彼女の本名は飯島きみ[*1]と言ひ, 貧農出身で尋常科卒業前に東洋紡績株式会社亀戸工場に女工として働く処となり, やがて産業合理化による大量馘首に反対して全員総罷業に入るや, 全女工より選ばれて女工代表罷業委員となり, 争議終了後馘首され, 自己の使命が女工の解放にある事を思ひ, 全協繊維労働組合結成に専心し, 昭和5年[1930年]Moscowで開かれたプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)大会へ日本左翼労働組合婦人部を代表して出席し, 6年潜行して[*2]帰国し党中央委員となつたが昭和9年[1934年]検挙をうけ, 昭和11年[1936年]栃木刑務所で獄死したと言ふ事であります)が, 私の働いて居りました工場の女工さんの紹介で私の処へたずねて来ました(*)


(*)此の段落の上部欄外に本文と同じ筆跡で「コミンテルン 国際共産党」「左翼労働組合」との書込みがある


彼女の純な女性解放への情熱と, 死を賭した日々の行為と, 前衛たるの責任感からする, 日に夜をついだ学問の追求とは, 全くの処, 零細農女性の超人的な忍辱の性格を前衛の方向に向けて発揚させたに過ぎぬものではあつても, その人格の量(まま)から来る人の征服力はとうてい私達の及ぶ処ではなかつたのです. 謙譲であると同時に何物にも屈しない闘争性と言いますか進取の気と言ひますか, そふした性格をそなへて居る彼女は, 私に自らが共産党員たる事を言わず, 党の仕事に私を協力させて行つたのでした


私が彼女へ力をかし, 彼女が私へ力を貸す友情を結べば, 結局それは私が日本共産党の仕事に協力する結果になるのでありますから「行くは牢獄,絞首台,之告別の歌ぞ」と云ふ闘争歌[*3]を私に教えた彼女の歌ひ方は, 単に歌を歌ふのではなく, 自己の真実の叫びを歌っているやうに力強い物があつたのでした


だから私は, 彼女の個人的な征服力によつて彼女へ誠実を尽くす事になり, それが日本共産党との関係を結ばせはしましたが, 入党の手続きなどをした覚(おぼえ)はないので, 警察官が入党したとはつきり言わなければ調書を進めないから, 年でも年でも警察へ置かれる事になり, だんだんには多くの人達に迷惑をかける事になるから, 入党したと承認したのであります[*4]


彼女とそのやうにして日本共産党の仕事に協力して居るうちに, 10.30事件とか熱海事件とか呼ばれる日本共産党の大量検挙があり, 党内混乱の状態となつた為もありませうが, 飯島きみと私の交渉は昭和8年春以来絶たれたのでありますが, その代りに若松玲子[*5]が私を訪問するやうになりました. 彼女はすでに有名な女性で, 女子大の英文科卒業, 労働党(まま)婦人書記として合法場面に活躍し, 3.15事件で一度は検挙されましたが執行猶予で社会人となり, 当時潜行して日本共産党東京市委員会婦人部長であつたのですが, 私と彼女との交渉は間もなく決裂致しました


と云ふのは, 昭和8年6月頃, 佐野學, 鍋島(鍋山)貞親等を中心にする日本共産党の一部が獄内で転向声明を公にし, 之が恐ろしい力で党大衆に感染し, やがて転向者数は非転向者数を凌駕する勢でありましたから, 私は若松玲子に転向内容の説明を, 非転向者へ対する声明とか又は対策とか言ふものがあれば, それを知らせてくれと申ました処, 彼女はそふ言ふ質問を発する事, 既に愚だ, 転向等は闘争につきものでそんなものは問題でない, 彼らは裏切りの語につきる, と申しました


私は, それが前衛の態度か, 前衛とは常に仮借なき自己批判をする責任があるではないか? 自己の弱体と無能とを隠蔽する事は自己壊滅への第一歩ではないか, 転向問題が労働階級の前衛として問題にならぬと言ふ事程無責任な指導があらふか, と言ふやうな反駁を試みました. 之が主な原因で私は彼女と再会する日を待たづ, 従つて日本(用紙の途中で中断)




*1:『山代巴獄中手記書簡集』では【飯島キシ】となっているが加藤哲郎は手記を活字に起こした時の誤りと指摘している

*2:【6年潜行】は計算合わないが原文のまま

*3:【♪行くは牢獄…】西尾治郎平・矢沢保『増補改訂版 日本の革命歌』p.26【赤旗の歌(5番)♪我等は死す迄赤旗を/捧げて進むを誓う/来たれ牢獄絞首台/掲[かつ]告別の歌ぞ/高く建て赤旗を/その蔭に生死せん/卑怯者去らば去れ/我等は赤旗[せっき]を守る】

*4:この記述は戦後の自伝的小説『濁流をこえて』『囚われの女たち』と照らし合わせる必要があるだろう

*5:若松玲子…『近代日本社会運動史人物大事典4 ひ-わ』p.980【若松玲: 日本大学社会学科卒 愛媛県生まれ 1928年12月,共産党に入党 4.16事件に連座し出所後は赤色救援会中央フラクションで働く. 共産党東京市委員を務める 1935年5月6日検挙,1936年2月4日起訴 『特高外事月報』1936年2月分】