『青木英五郎著作集 第1巻 裁判官の法意識』 栞 No.1(1986年8月)から

司法の現状に痛烈な警告



1950年代の後半ごろから,私は正木ひろし弁護士のお宅によく出入りしていた. ちょうど八海事件の冤罪を立証するために,正木さんが全力を投入していられるころであった. 青木さんに はじめてお目にかかったのも,おそらくそのころであったように思うが,いつであったか,今では思い出せない. そのころ,正木さんのお宅には,裁判所の動向を心配する同憂の士が,さまざまの立場・身上の相違をこえて集まっては,法廷対策を協議するばかりでなく,時代の現状をめぐる談論を風発させていたのであるが,弁護士のほかに研究者やジャーナリスト,そして現職の裁判官さえ顔を見せていたのである. そのメンバーを紹介することはさしひかえるが,青木さんと私は,そうした仲間として相交わるようになったのであった


正木さんたち弁護団の努力が功を奏して,死刑をふくむ有罪判決が最高裁判所で破棄され,差戻し審で被告全員無罪の判決が言い渡されたにもかかわらず,1962年[5月19日]最高裁[第一小法廷(裁判長:下飯坂潤夫)]は第二次上告審で検察官の主張を容れて無罪判決を破棄した. 私はたまたまテレビ・ドラマを見ていたところ,テロップで臨時ニュースとして報道された. そのときの心理的衝撃を,私は今でも忘れることができない. 青木さんも私と同じようなお気持ちになられたのであろう,裁判官を辞職して弁護士となり,八海事件の弁護人となることを決意されたのである. 身分・俸給の保証された裁判官の職をなげうち,一銭の報酬もない冤罪事件の弁護士となるためには,一家の生計を犠牲にする覚悟が必要である. 正木さんの前で(私のほかに誰が同席していたかは思い出せない)「住宅を処分しても」という青木さんの悲壮な覚悟の言葉を聞いたことが,今でも私の脳裏に深くきざみこまれて忘れられぬ思い出として残っている


これをきっかけとして,在野法曹としての青木さんは,つぎつぎと冤罪事件の救済のために身を挺して奮闘された. そのたたかいの軌跡は,この『著作集』によってつぶさにたどることができよう


法廷での活動と併行して,青木さんは,冤罪発生のメカニズムについての理論的・実証的解明のために多くの著作を公にされた. 私に贈られた署名入りの『事実誤認の実証的研究』を私はたいせつに保存しているが,この著作はまだ大阪高等裁判所判事として在職中の年に公刊されたものであって,現職の裁判官の手で冤罪裁判に関する研究書が堂々と公刊されるというのは,おそらく前例のない,少なくともまれなできごとであったにちがいない. 裁判所を去って下野しなければならない宿命が,すでにこの著作の公刊のときにめばえていたのではなかったろうか. そのころまだそういう言葉はなかったと思うが,裁判所内からの「内部告発」とでもいうべきものであるから,青木さんは裁判所にだんだん居づらくなられたのではないであろうか


この本の「あとがき」に,15年戦争下に陸軍司政官としてインドネシアの法院在任中,日本軍が住民に対して加えた残忍行為を見聞きした回想が記されているが,青木さんの後半生の生き方は,戦争体験を原体験としてそこに由来しているにちがいない. 1963年に公刊された『裁判官の戦争責任』という,裁判官であった人自らの筆になる,きびしい自己批判をふくむ著作を公にされた心情も,そのように考えると,よくわかるのである


日本の裁判所の状況は,青木さんの存命中に比べて,ますます悪化の一途をたどっている. もちろん良心的な裁判官がいなくなったわけではないけれど,その人たちの置かれている境遇を考えると,痛心にたえないものがある. 青木さんの活動はこうした憂うべき司法の現状に対する痛烈な警告として,今日なお切実な意味を保っていると確信する