岩田義道 革命者の生と死

岩田義道 革命者の生と死

    鈴木正



1932年11月3日, 岩田義道の死の通告は木曾川のほとりでわびしく暮らしていた母の元にとどいた. 実姉野々垣しきが上京してひきとった彼のむくろは安田徳太郎が立ち会って解剖に付された. 河上肇に示した安田のめもが『自叙伝』にのこっているが, それには「右心室は拡大されて心筋薄く, 恐らくこれが死の原因ならん」と記され, 更に死の誘因とされる大腿部の著しい皮下出血も棍棒のようなもので殴り, 鎖か縄で縛ったうえ丸太でしめたような痕跡だという医学的所見がのべられてある, 3か月後に同じ運命をたどる小林多喜二は岩田の死を歯軋りしてくやしがったという


葬儀場は550人の警官にかこまれ, 葬儀委員も会葬の労働者もすべて検挙された. 大阪・名古屋での慰霊祭も同じ有様であった


彼は明治31年4月1日, 愛知県木曾川町宝江(現在 一宮市北方町中島)で生まれた. 父の竹次郎は木曾川を下って名古屋や常滑へ通う船頭で, 母のしほもいっしょに船にのっていたから, 彼は祖父の大治郎の家で暮らすことが多かった. この祖父は区長をつとめたほどの人望家で, 不作の時には小作人を代表して年貢の減免を地主にかけあったといわれる


北方小学校高等科を卒業した彼は, 上京して紙問屋へ丁稚として住み込んだが, 帰郷して母校の代用教員となり, 大正2年愛知県第一師範学校に入学, このころから社会の矛盾をはだで感じはじめ, 人びとを貧乏から救うことを真剣に考え, 一時は福沢諭吉のような偉大な教育者になろうと夢みる. 卒業して木曾川西尋常小学校につとめたが, 10ヵ月で休職. 向学心に燃える彼は上京して休職中の半額の給料と新聞配達などで生活しながら, 塾に通って受験勉強に励み, 松山高校から京都大学へ進学してゆく


松山時代に尺八をたしなんだ彼は