無罪判決の要求

8月10日,最高裁における判決を目指す松川無罪判決要求のたたかいは,判決日に六方向から東京に到着する一万人の集中大行進,中央大集会,全国の職場・地域でもたれる無数の無罪要求の集会という大デモンストレーションとして盛り上がろうとしている


このたたかいは,判決日に向かって高まる国民の松川事件への関心を何倍にも強め,いっそう多くの人々を新たにたたかいに引入れ,判決がどのようなものであれ,判決後における松川のたたかいのいっそう大きい発展をもたらすであろう


松川10年のたたかいは,大きく分けると三つの段階に分けられる. 第1段階は第2審判決がおりるまで,第2段階は松川事件対策協議会が結成されるまで,第3段階はそれ以後今日までである

第1段階 左翼運動の限界

第1の段階のたたかいの主要な担い手は,何よりもまず被告自身であり,被告の家族たちであり,弁護団であった. また宇野浩二氏,広津和郎氏など進歩的文化人であり,共産党とその影響下の労働者・学生活動家であった. たたかいの進め方も,法廷闘争と結びつけた無実の訴えとデッチ上げの暴露を主とし,今日のたたかいの基礎をつくったものであったがいわば左翼の運動の限界を出なかった. たたかいの組織も,被告を中心に結成された松川事件対策委員会,国民救援会の松川班ともいうべき松川救援会という形であった


このように左翼の運動という限界をやぶることの出来なかった理由は,何よりも,この段階における労働者階級内部の,また労働者階級と国民の他の層との分裂状態であった. そもそも松川事件は,下山・三鷹事件とともに,人民中国の出現に恐怖し,日本を,極東における巻返し作戦の不沈空母として利用しようとするアメリカ帝国主義者と,その目下の同盟者となることで復活のチャンスを得た日本独占資本とが,労働者階級を中心に前進する国民のたたかいを分裂させ,弾圧し,首切り合理化を強行し,単独講和すなわち安保体制を押しつけるための陰謀事件であったが,当時の労働者階級と国民の状態は,この陰謀にみすみすひっかかる弱さをもっていた.


占領アメリカ軍を解放軍とする誤った考えを払いのけられなかったことから,労働組合運動に対するGHQ労働課の系統的な分裂策動を許し「反共」の旗印によってGHQの公認を得たいわゆる民同派は,松川事件等を労働運動内部での覇権獲得のため利用しさえした. また,三事件がおこされる前に,マス・コミを総動員して毎日のように列車妨害事故の意識的な報道が行われたが,このことは,GHQや政府が系統的に行った,共産党と戦闘的労働者を暴力と破壊の極悪人とする宣伝と結びついて,松川事件等は共産党と戦闘的労働者のしわざだという強い予断を国民に与えることになった


このような労働者階級内部の,また労働者階級と国民の他の層の分裂状態のために,またその後にとられた共産党極左冒険主義の誤った方針によっていっそう拡大されていった段階では,被告と家族と松川活動家の必死のうったえにもかかわらず,運動は左翼に限定されざるをえなかった. 第1審は公判自身が占領下の魔女裁判として汚辱にみちたものだが,第2審の公判廷では被告の無実が明白に証明されたにもかかわらず,白を黒といいくるめるおどろくべき判決を許したことは,松川のたたかいのこのような狭さにあったといえよう

第2段階 国民的運動に拡大

第2審判決以降,松川のたたかいは,いわば国民的広がりをもつまでに発展していくのだが,これは一方では,第2審の判決に裏切られた痛切な体験から,最高裁で勝利するためには,まさに国民的運動にまで広げる必要があることを認め,運動を転換したためであったが,この転換が可能であったのは,安保体制を梃子として開始された政治の反動化に対し,平和と民主主義を守り,真の独立をかちとるためのたたかいのなかで,労働者階級内部においても,労働者階級と国民の他の層との間においても,統一の機運が進んだためであった


この段階で運動の拡大に役立ったのは「公正裁判要求」であった. 無実の訴えとデッチ上げ暴露を直ちに受け入れない労働組合や,国民の他の層の人々にも,公正裁判の要求は広く受け入れられた


東京では丸ノ内守る会,岩波守る会等が中心となって,「自分たちは松川のたたかいの火種,たたかいの一番困難な側面を支えよう」として「東京都松川問題懇談会」が組織された. この会はその名の示すように,松川問題に何らかの関心をもち,疑問をもつ人々と,松川の真実について懇談し,研究を進めていこうというのであったが,この組織で育った新しい松川活動家は,公正裁判を要求して松川のたたかいに広範な結集を始めた労働組合や良心的な人びとに,松川の真実を伝える核となった


広津和郎氏の松川裁判批判の克明な文章は,このように拡大された運動の中で,真実を求める人びとの教科書となった


第2段階の後半では日本教職員組合国鉄労組等の大きい組織が公正裁判の運動に参加し,総評自らも運動の中心的推進体となった. そして,自らの目と足で真実を調べようとする現地調査運動も開始された

第3段階 労働者階級軸に

第3段階は,こうして公正裁判要求の広範な運動の中で,松川の真実を知った労働者階級が自らを中心として,松川に関心をよせるすべての人びとを結集して,無罪判決をたたかいとるための全国組織「松川事件対策協議会」を結成したときに始まる


最高裁における口頭弁論を前にして,松川事件対策協議会の活動は,飛躍的に発展し,運動のスローガンも「公正裁判要求」から「裁判やり直し要求」に,さらに確信にみちた「無罪判決要求」へと前進し,松川事件対策協議会の組織も,都府県段階から市区段階へと根を下し,松川守る会は職場に地域に次々に組織された


松川のたたかいは,こうして,労働者階級の組織を中心に,広範な統一戦線として発展するにいたった. このような松川のたたかいの発展のカギは,労働者階級が自らの問題として松川にとりくんだところにある


10年前の自らの弱さのために,松川事件等の陰謀と弾圧を許し,分裂と敗北の苦杯をなめ,今日日本国民の前途に立ちはだかっている安保体制を許したことを自己批判し,その安保体制との9年にわたる苦闘を通じ,統一だけが勝利の道であることを痛切に学びとったからにほかならない


判決日に東京に到着する集中大行進は,10年前,松川事件がおこされた当時,分裂していたすべての力が,がっしりとスクラムをくみ,「無罪」を要求し,最高裁めざして隊伍堂々進んでくるであろう


(文京区松川事件対策協議会事務局長, 歴史研究者)



参考⇒id:dempax:20150524